5章


提言



 最後に、この研究を通じて考えた、私なりの提言をしてみたいと思う。

 まずは、教育に多くのことを求めるのをやめるべきである。地域や家庭が担ってきた役割をいつのまにか学校に押し付けることで、学校の役割は肥大化し、社会は問題が起こると学校に責任を押し付けてきた。政策を担当する者があれもこれも解決しなくてはと考えて、学校教育をゆがめてしまうのは不幸なことである。国は学習指導要領と財源の支出によってナショナルミニマムを保障するにとどまり、後は自治体に任せればよい。

 教育というのは、本当に地方分権の遅れた分野だ。文部科学省が教育政策を決め、都道府県やさらにその下の市区町村がそれに従って教育行政を行うという中央集権的なやり方は、どう考えても今の社会に適したやり方とは思えない。画一教育による一元的な政策では、日本中の学校現場で起こっている様々な問題に対応できないと、誰もが感づいているのではないだろうか。

 もう一つ重要だと私が感じたことは、どうやって子どもに学力を身につけさせるかという方法を考える前に、子どもたちに「なぜ、勉強するのか」ということを教えるべきではないかということだ。一昔前であれば、いい高校、いい大学に入り、いい会社に入るために勉強するのだという理屈が通用したが、それだけが人生じゃないはずだと「個性重視」の教育によって教えられてきた子どもたちには通用しない。そもそも、いい大学に入ってもいい会社に入れるとは限らない時代なのだ。

 だからこそ、子どもたちには「学習の先」に何があるのかを伝えなければならない。その答えは、簡単に出ないと私は思う。教師だって、そんなことを教わってきた訳じゃないのだから、わかるという訳じゃないだろうし、私が今考えてみても、いろいろな答えは思いつくが、どれが正解かなんてわからない。それなら、どうしたらいいか。生徒に考えさせればいい。わからないことを一緒に考える、これが文部科学省の言う「生きる力」ではないか。だから、大人が無理やり答えを出して、それを子どもに押し付けるのではなく、一緒に考えて行くことによってそれぞれの正解を出せばいい。子どもに考えさせるように仕向ける能力ぐらい、教師に期待していいだろう。

 義務教育までは、子どもに平等な機会を与えると共に、結果の平等も求めなければならないと私は思った。そうでなければ、この研究の中で指摘したように、経済的上位層にいる子どもが恵まれた環境を利用して経済的下位層の子どもに差をつけ、やがて1流企業に就職し、階層は再生産されて行くのである。ここ数十年の教育政策は、経済的格差を考慮せずに形式だけの平等にこだわってきた結果、意図せずして格差をますます広めてしまった。経済的要因に関わらず、子どもが平等に学力をつけられる環境が整えられることを期待したい。


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