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テーマ:これからの地位活性化を考える | |||
ケース:その歴史と具体的事例から | |||
導入 | 研究動機 | ||
序章 | |||
第1章 | ふるさと創生金 | 第1節 1980年代の背景とその目的 | |
第2節 ふるさと創生関連施策 | |||
第3節 主な使われ方の分析 | |||
第4節 まとめ | |||
第2章 | 大分県の一村一品運動 | 第1節 大分県の特徴 | |
第2節 一村一品運動の展開 | |||
第3節 運動が与えた経済効果 | |||
第4節 前章、ふるさと創生金との比較 | |||
第3章 | 町おこしの具体的事例 湯布院 | 第1節 湯布院地域の当時の背景 | |
第2節 経済状況 | |||
第3節 まちづくりの具体的歩み | |||
第4章 | 企業参加型の町おこし | 第1節 三井物産と地域の関わり方 | |
第2節 赤坂町と由仁町の事例から | |||
第3節 これまでの町おこしとの比較 | |||
第5章 | 構造改革特区の可能性と展望 | 第1節 | |
第2節 |
現在、自分は地方公務員を目指して勉強している。自分の住んでいる地域やその周りの地域を活性化、つまり住んでいる人たちが生き生きとした生活ができるようにするためには何が必要であり、どのようなものが求められるのかを考えていきたい。
もちろん求められるものは地域によって異なっているだろう。観光地では集客能力のあるイベントや食べ物、施設が求められるだろうし、過疎化してしまった村では若い人たちを呼び戻すために新たな産業が必要かもしれない。また住宅地などでも地域内での人間関係を作るきっかけも求められるかもしれない。そのような地域の違いも含めて考えていく。
「地域の活性化」というと「町おこし、村おこし」という言葉が頻繁に使われるがイベントの開催などによって一時的に町の活性化させるものや町ぐるみで新たに産業を興したり様々である。しかしこれらを「成功と失敗」の線を引くことは難しい。経済的な価値だけでは計れないし人間同士の心の触れ合いはそれぞれの人にとって重要な価値があるだろう。そこで様々な地域政策を比較して上で「これが成功であれが失敗である」という分類は行わずそこで起こった結果を比較分析していくことでこれからの地域政策はどうするのがよいのか考える。
1970年代に全国的に定住志向が強まり、過疎・過密化傾向にいったん歯止めがかかったように見え、過疎地域の所得は上昇傾向にあった。しかしそれは国の公共事業などによる所得再配分の効果であり地域の自主的な産業の結果ではなかった。 80年代に入ると再び東京への人口の一極集中が起こり、地域間の所得格差は広がっていってしまった。そこで過疎地域は国の財政による所得再配分を期待せず、自分達の力とアイデアで産業化を進めていく必要が出てきた。「地域になじみ、長続きする地域振興は内発的に進めて行くべきである。」 しかし地域を活性化していくには内発的な振興だけでなく外部から積極的に新しい情報やノウハウも導入していかなければならない。そのためには自分の住んでいる地域を客観的に分析し、他にはないCI(コミュニティアイデンティティ)を見つけそれを生せる戦略や開発によるメリット、デメリットを比較し地域計画の明確なビジョンをメンバー全員が持っていかなければならない。これまでのように極端な工業化を推し進め、地域の自然環境を破壊してしまう経済的発展ではなく、地域のよい部分を最大限に引き出していく地域づくりが必要になってきたのである。 以上の背景を踏まえて現在の地域活性化はどのようにおこなっていくべきかを考えていくがその前に今日の町おこしに影響を与えた一章で「ふるさと創生金」、2章で大分県の「一村一品運動」について触れておく。
1985年10月、時の竹下内閣は、「自ら考え自ら実践する地域づくり」事業、すなわち「ふるさと創生構想」を打ち出した。 「ふるさと創生構想」とは、「国、政府が企画、メニューを出し地方がこれにのり、実施する」といった国庫補助制度と異なり、「地方が知恵を出し、中央が支援する」という、これまでとは異なった発想に基づいて、市町村が自主的・主体的に実施する地域づくりへの取組みを支援するため、「自ら考え自ら行う地域づくり」事業として、全国の市町村に対し、一律1億円の交付税措置(昭和63年度2千万円+平成元年度8千万円)を行ったことを言う。 しかしそのためには従来行われてきた工場の誘致やリゾート誘致といった安易な誘致合戦ではこの問題は解決できない。なぜなら戦後日本が歩んできた高度成長の過程で地方の人口は急速に減少し、これらの農村では労働力を得ることが難しく、誘致される側の企業にとってはもはや魅力ある地域とはいえなくなってしまったからである。
上でも述べたが当時の日本は、政治、経済、文化が東京へ一極集中し人口が流れ込む一方、その反動で地方が停滞してしまっていた。そのような状況の下、地域の活性化を図り、東京一極集中にブレーキをかけ多極分散型国土の形成を進める事で地方を「ふるさと」として創生することが、国土の均衡ある発展を図る観点と、地方自治の健全な発展を図る観点から極めて重要であると考えられるようになってたことがあげられる。
このような背景で「地域に固有の地理的、歴史的条件や資源の積極的活用を図るほか、地域の主体性と創意工夫を基軸とした地域づくり」を永続的に地域自ら行うことを目指した「ふるさと創生」は誕生し、その後も以下の表で示すように地域活性化策は多く打ち出されている。「昭和63年度には、地域総合整備事業債「ふるさとづくり特別対策事業」の創設に伴い、地域総合整備事業債・ふるさとづくり事業分が新設(平成8年度から特別分に統合)され、特別分と同様の財政支援措置のほかに、新たに原則当該年度事業費の15%についても事業費補正(平成8年度から臨時的に地方債に振替)されることとなった。
このような一連のふるさと関連政策の中でその始点である「自ら考えて自ら行う地方作り事業」いわゆるふるさと創生一億円事業について考察を進める。
1989年3月6日の読売新聞のデータ(読売新聞社の東京、大阪、西部、中部の本社、北海道、北陸支社管内総支局、通信部を通じて、交付対象の3057市町村すべてに聞き取り調査を実施)によるとふるさと創生金の主な使い方は
観光目的だけでなく住民の福祉のためにも温泉の採掘に利用したり、
様々なイベントを起こし、観光客を呼ぼうとした自治体が全体の5分の1を占めた。宮城県牡鹿町の観光レジャー施設「ホエールランド」建設費16億円の一部に充当やセブンアイランドクルーズ観光促進事業の整備のための費用といった当時のリゾートブームに乗った発想も目立つ。また『秋田県由利町の「ゆりの里作り」』、『秋田県雄物川町の「マツタケの里作り」』、といった「○○の里作り」や「日本一の水車作り、宮城県志波姫町」、「世界一の砂時計作り、島根県仁摩町」といったイメージやシンボルを作り観光開発を図ったところも多い。
A文化芸術振興
「城壁の整備」や「郷土資料館の建築」など地域の歴史や文化の保存や整備に使って市町村が全体の20パーセント近くを占めた。他にも「小泉八雲市民文学賞の創設、島根県松江市」「宮沢賢治賞の創設、岩手県花巻市」など新たに文学賞を創設し市町村の知名度を上げイメージアップを図った市町村が20近くもあった。
B自然環境整備型
自然公園の整備や森林の保護、「砂丘植物園の整備、茨城県波崎町」
など地域の自然保護に使った市町村が14パーセントとなった。また「千葉県一宮町、町をきれいにする
課の資金」などもあった。
C基盤整備
「道路整備、公共用地買収、集会所や町営住宅の建設」など地域の基盤整備に10パーセントが使われた。
D特産品の開発
「特産のポンカンやタンカンなどのジュース工場、鹿児島県上屋久町」など特産品などの地域名産品の関係が意外にも6パーセントにととどまったがこれは従来から市町村単位で行われてきたためだと思われる。また「農業生産コストの軽減のための調査、福井県坂井町」、「特産品のさつまいもなの病害追放のためバイオ栽培した無菌苗木を農家に配布、鹿児島県山川町」等新たに特産品を開発するのではなく、いまある特産品の改良に使われたものもある。
60年代の町づくりの歴史を見てみるとダムや空港やゴミ処理施設建設の反対を住民自ら行政とかっけあって住み良いまちづくり行うための住民運動といった形で行われていた。しかし80年代になると地域は自分たちの特色を他の地域に積極的にアピールする事でその良さを示そうという形に変わっていった。それを政府が後押しする形で行われたのが竹下内閣の「自ら考え自ら実践する地域づくり事業」すなわちふるさと創生構想であった。そのよう
な新しいまちづくりを民俗学学者の安井眞奈美は次のように言っている。
そもそもふるさとと は時間的な経過のなかで思い描く記憶の中の存在である。ある人にとっては自分をあたたかく迎えてくれる安 らぎの場所であり、またある人にとっては忘れ去ってしまいたいような苦渋に満ちたものである。つまり場所 に限らず、個人の体験に根ざしたその人にとっての固有の存在がふるさとである。そのためふるさとは逃れよ うとしても簡単に逃れられない、人間関係のしがらみに満ちている。 いま巷にあふれているふるさととは、このようなふるさととはまったく異なっている。今日のふるさとは、ノスタルジックな雰囲気を醸し出すようにメディアが作り上げたものである。人は自分の出身地と関わりなく、 自由にふるさとを選択することが出来るようになった。金さえ出せば、誰でも新たなふるさとが買えるので ある。このようなふるさとは、メディアによって再生産され、現代社会のなかでひたすら消費される運命に ある。いわば「 消費型ふるさと」とも呼ぶべきものであるのだ。 ふるさと創生論以降の町おこしや村づくりは、このような「消費型ふるさと」をいかに創りだし、売り出していけるかにその重点が移っていった。いまや、ふるさとを商品化した「ふるさとビジネス」なる市場が存在しているのである。
当時の首相である竹下登はその著書である「ふるさと創生論」のなかでふるさと創生は単なる国土の開発や地域の振興の問題ではなく、日本人が日本人としてしっかりした生活と活動の根拠を持つ世の中を築き上げることだと主張している。しかしその理念を理解し、成功まで導いた市町村は少ない。だが三割自治と言われている地方の現状で中央から地方への一方的な政策決定過程を考えるという意味で有効であったといえるのではないか。
次に2章で大分県の一村一品運動について見てみる。
一村一品運動を考えていく前に当時(50年代)の大分県の経済状況を考えてみる。以下は大分県中小企業情報センターが昭和55年に発行した『ムラオコシ(内発的地域振興)の実践と理論』より一部引用、参考させていただく。 大分県の経済の特徴は他の市町村に比べて こうした特徴は相互に関連しあっている。まず県民総支出に占める財政の経常支出と政府の固定資本形成の割合をみると大分県は昭和51年度には25.5パーセントに達している。全国平均が18.6パーセントであるからかなり高い水準にある。しかもこの数年間高い水準を維持している。 また県民総支出に占める純移出入の比率を見ると、昭和51年度にはマイナス27.5パーセント、と沖縄県のマイナス29.1パーセントに次ぐ移入超過になっている。移出が83.5パーセント、移入が111パーセントとなっており、移入が移出を大きく上回っている。 いま財政依存度と純移出入比率の相関を見ると、図1の通りである。総じて財政依存度の大きい県は純移出入で大きなマイナスとなっている。民間の経済活動の不足を財政でカバーしているのである。
@ 財政依存が大きい
A 移入が移出を大きく上回っている
B
生産機能が弱く工業が偏っている。
C 所得水準が低い
D 市町村間の所得格差が大きい
E 過疎地域が多い
また労働生産性を見ても大分県の第二次産業はきわめて低い。昭和51年度の数字では全国平均を100とした場合、大分県は58.5に過ぎない。こうした第二次産業の生産性の低さが他の産業の発展をも制約しているともいえよう。
以上のような経済活動の結果、大分県の所得水準は低い。全国平均を100とした場合、昭和51年度には一人当たり県民分配所得は75.1 一人当たり県民個人所得は81.2。昭和52年の人口一人当たり、課税対象個人所得は76.4という水準にとどまっている。
しかし、大分県の特徴は所得水準が低いだけではない。市町村間の所得格差大きいという特徴がある。人口一人当たり、課税対象個人所得について市町村間格差を変動係数によって他見と比較してみると熊本県、長崎県、宮崎県、鹿児島県などとともに大分県は格差の大きいグループに位置している。大分市の所得水準が高いのに対し、内陸部の市町村が低所得である為、市町村間格差が大きいのである。
市町村総数に占める過疎市町村数の比率が74.1パーセントと全国一高いというのも大分県の特徴のひとつである。そして過疎市町村の人口減少は著しく、昭和50年には県全体の30パーセントを割っている。反面、大分市の人口増加は著しく、55年には過疎市町村全体の人口に匹敵していると思われる。このように異常な過疎、過密の進展に歯止めをかけるためにも過疎地域の振興が必要である。過疎地域の産業を振興し、就業の場を確保するとともに、所得水準を上昇させ、あわせて移出入をバランスさせることが重要な課題であった。
このような状況を背景として一村一品運動は昭和54年平松守彦(当時)大分県知事によって提唱された。
1つの村で1つの品物つまり「農産物でもよければ観光でも民謡でもよい、それぞれの地域の顔となるもの」を作り上げ全国的に有名にしていこうという運動である。
このように聞くと「一村一品運動」も単なる特産品作りに過ぎないと思われるがそれが単なる特産品作りとの違いを示す言葉として平松大分県知事はこう語っている。
「たとえば東京名物に『虎屋のヨウカン』があります。大変おいしいし、全国にその名を知らしめています。がこれは一村一品とは言えません。私の言う一村一品とは、大分の例をとれば“大田村の生しいたけ”や“千歳村のはと麦味噌”“国東町のキウイフルーツ”などに代表されるものなんです。
『虎屋のヨウカン』とどこが違うのかというと、その町や村の若者たちが自分たちの努力で作り出し、それによって地域に活力がみなぎって、若者が定住していくという点です。こういう活力、やる気を起こすところに一村一品運動の主眼があるわけです。「地方からの発想」より
一村一品運動は山間僻地が多く産物の乏しい大分県において農山村の余剰労働力を生かして産業を起こし、農家の所得を増やすこ
とによって結果的に過疎化傾向歯止めをかけようとする、「村おこし」の精神運動の意味をもったものである。
しかしながら、一村一品運動は精神運動であると同時に、特産品づくりの実践活動でもあって、実際に優れた産品を生み出すこ
とのよって全国的な評価を受けそれが「村おこし」の気運にいっそうの拍車をかけるという、よい循環を生む結果となった。しか
も大分県の一村一品運動に幸いした事はこの運動が起こった時点ですでにいくつかの特産品が地歩を固めつつあり、それが牽引車
となっていっそう運動の評価を高めたことである。
食品関係では質・量ともに日本一を誇る乾しいたけ、時代を先取りした大山町の工場生産のエノキダケ、昭和50年代初めに柑橘類
の転換作物として導入された津久見市のサンクィーンや国東町のキウイフルーツ、長年の苦心の末に軌道に乗った姫島の養殖車えび
等があった。また工芸品では古くから伝統のある別府の竹細工を始め、日田の陶器、木履、家具等があった。
このような特産品作りは、昭和54年に平松知事が「一村一品運動」の呼称を与えてからいっそう活気を帯び、相前後して、かぼす、
豊後牛、吉四六漬、麦焼酎などが一村一品銘柄として県内外の流通経路に乗り、高い評価を獲得してきたのである。
いわゆるCI(コーポレートアイデンティティ)が企業理念の確立によって企業に対する企業に対する社員の一体感を育てる行動であるのに対し、一村一品運動はCI(コミュニティ運動)、地域文化を確立し自分たちの地域に誇りを持って生活して行こうという運動であるといえる。
昭和 (年度) | 開催回数 | 催延日数 | 出品金額 (円) | 販売金額 (円) |
51年度 | 21 回 | 126 日 | 137,807,220 | 56,169,212 |
52 | 27 | 148 | 179,413,210 | 94,690,791 |
53 | 26 | 149 | 233,571,845 | 110,619,195 |
54 | 26 | 145 | 218,253,180 | 99,018,561 |
55 | 27 | 150 | 259,253,995 | 121,553,153 |
56 | 23 | 138 | 289,263,070 | 145,973,190 |
57 | 32 | 179 | 532,660,260 | 217,991,604 |
58 | 30 | 180 | 717,871,525 | 298,138,033 |
59 | 34 | 229 | 801,423,150 | 352,108,917 |
60 | 29 | 170 | 969,416,704 | 369,262,323 |
知事は最初、住民を運動に向かわせていく為にこのようにはっぱをかけている。
一村一品運動は私のためにやってくれというと言うのではない。やりたくないところはやらなくてもよろしい。一生懸命、地域づくりに取り組んだ所は人口が伸びるだろうし、そうでないところは過疎が続く。過疎が続けば、小学校は複式学級にもなるだろうし、医者もいなくなる。しかしそれは、自分たちが何もやらなかった結果であって、そのときになって県に応援くれといってもやりようがない。どの村が何を一品に選ぶかは自分たちのリスク(危険)とアカウント(勘定)でやってもらいましょう。
ここで先に述べた「ふるさと創生金」と「一村一品運動」について比較してみる。
ふるさと創生金
地域に固有の地理的、歴史的条件を生かし、地域の主体性と創意工夫を機軸とした地域づくりを目指す。
使途は市町村が住民の意向を取り入れて決定する。
費用は一律1億円
行政主導、先導型
一村一品運動
その町や村の若者たちが自分たちの努力で作り出し、それによって地域に活力がみなぎることによって、若者の定住を目指す。
きっかけは知事のコメントによるものだが住民が計画と実行に責任を持っている。
費用は運動が軌道に乗ってからの必要最低限の資金援助や技術指導
結果に対する責任は住民が負う、住民主導型
東京への一極集中是正や地方の特性を生かし、過疎化を防ぎ、住民のよりよい生活を目指す、といった同じような理念を抱えているがその手段や取り組む姿勢が大きく異なる。
ではなぜ一村一品運動は成功したのか。
先ほど平松県知事の運動への姿勢として「自主自立」を挙げたが単に住民に丸投げし責任を負わせていたのではない。
そこで成功のポイントは
@
「最低限の財政支援」
運動が軌道に乗る一歩手前まで成長した段階ではじめて必要最低限度の財政的支援を行うということである。もし県が補助金を出すとなるといったん補助金が出なくなると「それじゃあやめるか」ということになる。また作った物が売れなければ県が「買い上げてくれ」となる。このような極端な行政依存の状態では住民が責任と覚悟を持って町おこしを行っているとは到底いえない。
A
「上級行政庁である県の役割を限定」
第一章でみた「ふるさと創生金」の場合にも注意して行われていた上級行政庁が必要以上に市町村に口出しせず、その役割を相談や情報提供、技術指導などの範囲にとどめた事。またふるさと創生金と異なる点としてその運動の責任は自己責任である事を住民に徹底的に理解させたことである。
B
「地域リーダーの育成」
当時、大山町や湯布院町では地元の若者が積極的にグループを作り地域活性化のための研究会や実行活動に取り組んでおりそれがよい結果を生んでいた。そこで知事自ら全県下を行脚して住民の自主的な立ち上がりを促したり、昭和58年度から自ら塾長となって地域の若者を集め「豊の国づくり塾」(県広報公聴課と県内12県事務所)を開き各市町村ごとの運動の中核となるリーダーの育成にも力を入れていた。その集まりの内訳は以下の表にまとめておく。
塾名 | 開塾年度 | 塾生数 |
日出塾 | 58 年度 | 31人 |
佐伯塾 | 58 年度 | 30人 |
日田塾 | 58 年度 | 32人 |
国東塾 | 59 年度 | 33人 |
大分塾 | 59 年度 | 37人 |
竹田塾 | 59 年度 | 34人 |
玖珠塾 | 59 年度 | 34人 |
中津塾 | 59 年度 | 34人 |
高田塾 | 60 年度 | 36人 |
臼杵塾 | 60 年度 | 31人 |
三重塾 | 60 年度 | 40人 |
宇佐塾 | 60 年度 | 49人 |
北海道 | 北海道一村一品運動 | 和歌山 | ふるさと産品 |
青森県 | 水産加工活性化事業 | 島根県 | むらまち自慢のれん市 |
岩手県 | ふるさと特産品振興事業 | 岡山県 | 「みなおそう岡山」推進事業 |
山形県 | 一地域一産地事業 | 広島県 | 広島ふるさと一品運動 |
福島県 | ふくしま・ふるさと産業おこし運動 | 山口県 | 特産品を見直す運動 |
千葉県 | ふるさと産品育成事業 | 香川県 | 特産の里作り推進モデル事業 |
神奈川 | 神奈川名産50選 | 愛媛県 | 特産銘柄産地育成事業 |
富山県 | 特産王国作り | 佐賀県 | 佐賀農業産地づくり運動 |
長野県 | 村おこしモデル事業 | 長崎県 | ふるさと産業振興運動 |
静岡県 | ふるさと産品育成事業 | 熊本県 | くまもと日本一作り運動 |
京都府 | ふるさと産品開発運動 | 宮崎県 | 新ひむかづくり運動 |
奈良県 | 山村地域特産物振興対策事業 | 鹿児島 | ふるさと特産運動 |
湯布院町が他の市町村と際立った対照を示す、特異なまちづくりないし村おこしの様相を呈すようになったのは、何よりも5期19年(昭和30年より49年まで)続いた岩男町長の影響によるところが大きい。由布院町、湯の平村が合併して、新しく湯布院町が誕生した時点からの長期政権であるだけに行政の動向が町づくりの方向や気風を大きく左右しとことも無理からぬことである。岩男町長の影響を受けた由布院盆地の若手の旅館経営者を中心に「由布院の自然を守る会」が発足(昭和45年)し、翌年「明日の由布院を考える会」へと発展してゆき、地域独自の論理に基づく自然環境の保全、それに依拠した新しい観光地作りの運動を展開して、この住民運動は湯布院の地域づくりを全国的に有名なものにした。この住民運動グループは前町長の強烈な個性に触発され、そのご「牛一頭牧場」や「牛食い絶叫大会」など行政よりむしろ住民主導の形で地域づくりのイメージ付けがなされてきたのがこの町の特徴である。その後町長が国会議員として転出した後も昭和51年に全国各地の研究者、実務家、200人余りが一堂に介した「湯布院シンポジウム」が開かれ、湯布院及び、周辺地域の活動家や行政担当者に波及効果を及ぼした。
観光地という本来の性格からして広く全国各地から多くの人が訪れるのは当然であるが隣の別府のような歓楽方型ないし団体旅行の温泉地と異なり、湯布院は落ち着いた田園の環境と滞在保養の色彩が強い温泉地であるから文人をはじめとする都市の芸術家、学者なども相当、個人的にやってきたため全国各地の地域づくりの情報センターとしての役割を担ってきた。また湯布院は前章でとりあげた平松県知事の「一村一品運動」と並行して行われてきたため県内各地の産物が販売され、周辺地域のショーウィンドウとしても機能してきたのである。
総面積(ha) | 耕地(%) | 林野(%) | その他(%) | |
宇佐市 | 17,770 | 36.5(27.6) | 38.4 | 25.1 |
湯布院町 | 12,798 | 8.8(4.9) | 86.1 | 5.1 |
玖珠町 | 28,768 | 8.6(6.6) | 83.5 | 7.9 |
大山町 | 4564 | 10.2(3.2) | 80.7 | 9.1 |
安心院町 | 14,523 | 17.2(12.0) | 69.5 | 13.3 |
35年 | 40年 | 45年 | 50年 | 54年 | 45〜50 | 50〜54 | |
宇佐市 | 62,437 | 55,370 | 51,942 | 50,677 | 51,293 | △1.2% | 1.2% |
湯布院町 | 12,682 | 12,595 | 12,025 | 11,371 | 11,991 | △3.4% | 5.5% |
玖珠町 | 28,300 | 25,565 | 23,828 | 22,369 | 22,578 | △6.1% | 0.9% |
大山町 | 6,168 | 5,755 | 5,118 | 4,701 | 4,576 | △8.8% | △2.7% |
安心院町 | 15,048 | 11,570 | 10,291 | 9,814 | △11.1% | △4.6% |
世帯数 | 総農家数 | 農家比率 | 専業農家数 | 専業率 | 兼業農家数 | 第2種兼業 | 第2種兼業率 | |
宇佐市 | 14,971 | 7,715 | 51.5% | 1,258 | 16.8% | 6,457 | 4,656 | 60.3% |
湯布院町 | 3,195 | 1,006 | 31.5% | 94 | 9.3% | 912 | 564 | 56.1% |
玖珠町 | 5,939 | 2,858 | 48.1% | 421 | 14.7% | 2,437 | 1,412 | 49.4% |
大山町 | 1,058 | 710 | 67.1% | 27 | 3.8% | 683 | 522 | 73.5% |
安心院町 | 2,851 | 2,249 | 78.9% | 394 | 17.5% | 1,855 | 921 | 41.0% |
赤坂町の経済循環構造
町のとる様々な政策の効果は次のようである。公共土木工事では工事費の1割しか町に落ちていない。企業誘致については、雇用効果はほとんどなく、見るべき成果はあがっていない。
平成6年の赤坂町の総生産額は158億円、町民所得は131億円であるが、町民所得は町外に働きに出ている人の所得が中心であり、総生産額としてはそれなりの数字があるものの、それが町民への分配所得となっていない。また、赤坂町での販売はわずか6%であるため、町民の得る所得は、労働賃金程度にとどまっている。つまり、町内で経済が循環しておらず、製造業は基盤産業とは言えない。
では町の基盤産業は何かというと、農業である。農業の町内総生産額は14億円で、農業からの町民所得は7億1千万円ということからわかるように、数字は小さいながらも所得に与えている影響が非常に大きい。このことから、赤坂天然ライスを設立することとした。
株式会社赤坂天然ライスについて
平成7年3月に設立し、10月から操業を開始した。町有地に工場をつくり、第3セクターに管理を委託している。
@地域の米を使う、
A農家の主婦の働き場所を確保する、
これが行政目的である。
工場長、製造長は芙蓉物産から来てもらっている。また、従業員はすべて芙蓉の社員として採用し、赤坂天然ライスへ出向という形をとっている。労働条件としても、芙蓉の社員管理をそのまま採用し、民間企業の持つ厳しさの中に身をおいて働いてもらっている。 販売については、芙蓉物産の持っている販売ルートにのせるとともに、独自のルートを開拓した。
現在、売上高は12億円であるが、町内の他産業への生産波及効果は1億2,564万円である。発泡スチロール、包装容器等をすでに町内に進出している企業から買い入れているためである。また、所得誘発効果は1億3,135万円である。現在、農家の主婦を37名雇っており、これを50人や60人にしたいのだが、高齢化の進展やすでに働く場所を持っているという理由から、なかなか増えないでいる。
同規模の売上をあげる赤坂町での従来型製造業を誘致したと仮定した場合に比べると、町内の他産業への生産波及効果や所得誘発効果、雇用誘発効果が大きく、一応の所期の目的は達成できたと考えている。
平成9年3月からは、県経済連と協力し米の販売も始めた。町の米は全量買い取り、他町村(赤磐郡等)からも米を買い取っている。利益を多く得ることではなく、米の継続的な販路を得ることが目標である。赤坂天然ライス設立前7億1,000万円であった農業総生産が8億9,000万円となった。会社の利益を町に還元し、作付け前の奨励金等にそのお金を使うことと、会社での労働賃金として町民へ還元されている。
共通作物である米に着目し、加工、販売を行っているのだが、思い切って民間と提携し、ノウハウを得ることも良いことだと思っている。それが正しいかどうかは将来決定されるだろう。 農家の意欲が出てきたことは確かである。Uターンで農業を始める人もわずかながら出てきた。 行政が食品の流通をどう位置づけるか。民間のノウハウを借りるか、一緒にやるか、方法はいろいろあるだろうが、赤坂町では町としての考え方を現在実践しているところである。
現代では高度経済成長時代の新興住宅地などによる急激な開発が行われ、地域共同体が持っていた様々な役割も失われてしま った。そしてインターネットや携帯電話の普及によって第2次の地域共同体の破壊が起きている。確かにネットや携帯で瞬時に世界中 とつながることはできるがその事によって自分の今住んでいる地域が見えていないのである。そして地域が崩壊したことによって地域 が持っている子供の教育的側面が失われてしまった。『地域崩壊』は「『学級崩壊』や『家庭崩壊』にもつながっていくことである。 この3つ社会的ゆがみの中で育ってきた子供たちがおこす犯罪もそんな所に原因があるのではないか。
そこで今こそ必要なのが地域の活性化、つまり「町おこし」である。しかしそれはバブル期の「ふるさと創生金」を代表とする箱物、 いわゆるハード面の開発ではなくソフト面の開発である。そして今求められているのは、町おこしがもたらす経済的な効果だけではなく、 「心のつながり」なのである。例としてはヨーロッパで始まったグリーンツーリズムがある。それは「農山漁村などに滞在し、その地域 の農林漁業を体験したり、自然・文化・人々との交流を楽しむ旅」という未来型のリゾート計画といえる。なぜなら地域が崩壊し、過疎 化が進んでいる地域に都市から人工的なものに疲れ、農業などの実質的な要望を満たす為に新しい「リゾート」として人がやってきて労 働力の不足、余分な農地の有効利用、人々の交流などの新しい「都市と農村の関係」が生まれているのである。それは都市との交流の中 で農村を活性化させる町おこし(地域活性化)であるといえる。 ゆとり教育の実施、国立大学の法人化、などによる教育の価値観の変化に伴い、地域共同体の教育効果を復活させ、「開かれた教育、地 域全体が教室」といった新たな地域基盤作ることが必要なのではないだろうか。
21世紀は「地方の自立の時代」といわれている。第一章で「行政主導の町おこし」第二章で「行政協力型の地域活性化」、 第三章で「住民主導の町おこし」第四章で企業による「町おこし」までの事例を通じて様々な地域の活動を見てきた。しかしここで取り上げら れたのはもちろん一部の動きでしかない。ここでは「地域の(財政的な意味での)体力を作る」といった観点から見ていきたかったの で町おこしとして評価の高いものでもイベントや○○祭りなど一時的な活性化を目指しているものは除いた。年間を通じて「職を地域 に作り出す」ことで地域は活性化するのであるし、湯布院の事例で見たように観光は多方面に波及効果を持つ総合産業である、その意 味で町全体を押し上げる事に成功したのである。
しかも町おこしとは「あの町で成功したからうちの町でもやってみよう」といった発想では二番煎じの憂き目を見ることにもなるし、共 倒れになってしまう。またありきたりなものを作って成功することも難しい。
「町おこし」、「村おこし」といった言葉が使われだして30年近くたっているがその言葉の使われ方は様々である。その歴史的背景を 追ってみるとやはりその担い手は行政から住民へと確実に移ってきていると思われる。しかし行政だけで行うといった形ではなく町おこ しは住民も一緒になって行おうという考え方は広まってきた。
また都市部との交流の仕方も変わりつつある。高度経済成長期を代表とするリゾート型の歓楽施設ではなく、 地域の良さ、田舎の良さを都会の人に味わってもらう事を目的にしたグリーンツーリズムなどが流行している。
何か物を売り出すのではなく自分の地域色を出し、「地域自体を売り出すこと」が今後、地域が生き抜いていくためには必要である。