早稲田大学 社会科学部
 山内 重久
上沼ゼミナール(政策科学研究)

    
                
テーマ:これからの地位活性化を考える
ケース:その歴史と具体的事例から
導入 研究動機
   序章
第1章 ふるさと創生金 第1節 1980年代の背景とその目的
第2節 ふるさと創生関連施策
第3節 主な使われ方の分析
第4節 まとめ
第2章 大分県の一村一品運動 第1節 大分県の特徴
第2節 一村一品運動の展開
第3節 運動が与えた経済効果
第4節 前章、ふるさと創生金との比較
第3章 町おこしの具体的事例 湯布院 第1節 湯布院地域の当時の背景
第2節 経済状況
第3節 まちづくりの具体的歩み
第4章 企業参加型の町おこし 第1節 三井物産と地域の関わり方 
第2節 赤坂町と由仁町の事例から 
第3節 これまでの町おこしとの比較 
第5章 構造改革特区の可能性と展望 第1節   
第2節   




研究動機

 

現在、自分は地方公務員を目指して勉強している。自分の住んでいる地域やその周りの地域を活性化、つまり住んでいる人たちが生き生きとした生活ができるようにするためには何が必要であり、どのようなものが求められるのかを考えていきたい。

 もちろん求められるものは地域によって異なっているだろう。観光地では集客能力のあるイベントや食べ物、施設が求められるだろうし、過疎化してしまった村では若い人たちを呼び戻すために新たな産業が必要かもしれない。また住宅地などでも地域内での人間関係を作るきっかけも求められるかもしれない。そのような地域の違いも含めて考えていく。

 「地域の活性化」というと「町おこし、村おこし」という言葉が頻繁に使われるがイベントの開催などによって一時的に町の活性化させるものや町ぐるみで新たに産業を興したり様々である。しかしこれらを「成功と失敗」の線を引くことは難しい。経済的な価値だけでは計れないし人間同士の心の触れ合いはそれぞれの人にとって重要な価値があるだろう。そこで様々な地域政策を比較して上で「これが成功であれが失敗である」という分類は行わずそこで起こった結果を比較分析していくことでこれからの地域政策はどうするのがよいのか考える。




序章




町おこしの必要性


1970年代に全国的に定住志向が強まり、過疎・過密化傾向にいったん歯止めがかかったように見え、過疎地域の所得は上昇傾向にあった。しかしそれは国の公共事業などによる所得再配分の効果であり地域の自主的な産業の結果ではなかった。

80年代に入ると再び東京への人口の一極集中が起こり、地域間の所得格差は広がっていってしまった。そこで過疎地域は国の財政による所得再配分を期待せず、自分達の力とアイデアで産業化を進めていく必要が出てきた。「地域になじみ、長続きする地域振興は内発的に進めて行くべきである。」

しかし地域を活性化していくには内発的な振興だけでなく外部から積極的に新しい情報やノウハウも導入していかなければならない。そのためには自分の住んでいる地域を客観的に分析し、他にはないCI(コミュニティアイデンティティ)を見つけそれを生せる戦略や開発によるメリット、デメリットを比較し地域計画の明確なビジョンをメンバー全員が持っていかなければならない。これまでのように極端な工業化を推し進め、地域の自然環境を破壊してしまう経済的発展ではなく、地域のよい部分を最大限に引き出していく地域づくりが必要になってきたのである。

以上の背景を踏まえて現在の地域活性化はどのようにおこなっていくべきかを考えていくがその前に今日の町おこしに影響を与えた一章で「ふるさと創生金」、2章で大分県の「一村一品運動」について触れておく。




第1章 ふるさと創生金





一節 1980年代の背景とその目的





 1985年10月、時の竹下内閣は、「自ら考え自ら実践する地域づくり」事業、すなわち「ふるさと創生構想」を打ち出した。

「ふるさと創生構想」とは、「国、政府が企画、メニューを出し地方がこれにのり、実施する」といった国庫補助制度と異なり、「地方が知恵を出し、中央が支援する」という、これまでとは異なった発想に基づいて、市町村が自主的・主体的に実施する地域づくりへの取組みを支援するため、「自ら考え自ら行う地域づくり」事業として、全国の市町村に対し、一律1億円の交付税措置(昭和63年度2千万円+平成元年度8千万円)を行ったことを言う。

上でも述べたが当時の日本は、政治、経済、文化が東京へ一極集中し人口が流れ込む一方、その反動で地方が停滞してしまっていた。そのような状況の下、地域の活性化を図り、東京一極集中にブレーキをかけ多極分散型国土の形成を進める事で地方を「ふるさと」として創生することが、国土の均衡ある発展を図る観点と、地方自治の健全な発展を図る観点から極めて重要であると考えられるようになってたことがあげられる。

 

しかしそのためには従来行われてきた工場の誘致やリゾート誘致といった安易な誘致合戦ではこの問題は解決できない。なぜなら戦後日本が歩んできた高度成長の過程で地方の人口は急速に減少し、これらの農村では労働力を得ることが難しく、誘致される側の企業にとってはもはや魅力ある地域とはいえなくなってしまったからである。



二節 ふるさと創生関連施策





このような背景で「地域に固有の地理的、歴史的条件や資源の積極的活用を図るほか、地域の主体性と創意工夫を基軸とした地域づくり」を永続的に地域自ら行うことを目指した「ふるさと創生」は誕生し、その後も以下の表で示すように地域活性化策は多く打ち出されている。「昭和63年度には、地域総合整備事業債「ふるさとづくり特別対策事業」の創設に伴い、地域総合整備事業債・ふるさとづくり事業分が新設(平成8年度から特別分に統合)され、特別分と同様の財政支援措置のほかに、新たに原則当該年度事業費の15%についても事業費補正(平成8年度から臨時的に地方債に振替)されることとなった。





「北海道庁HP」より

このような一連のふるさと関連政策の中でその始点である「自ら考えて自ら行う地方作り事業」いわゆるふるさと創生一億円事業について考察を進める。



 三節 主な使われ方の分析



1989年3月6日の読売新聞のデータ(読売新聞社の東京、大阪、西部、中部の本社、北海道、北陸支社管内総支局、通信部を通じて、交付対象の3057市町村すべてに聞き取り調査を実施)によるとふるさと創生金の主な使い方は



「読売新聞」より作成



イベント観光開発
文化芸術振興
自然環境整備
社会基盤整備
特産品の開発、


の五つに分類される。


@イベント観光開発
 

観光目的だけでなく住民の福祉のためにも温泉の採掘に利用したり、 様々なイベントを起こし、観光客を呼ぼうとした自治体が全体の5分の1を占めた。宮城県牡鹿町の観光レジャー施設「ホエールランド」建設費16億円の一部に充当やセブンアイランドクルーズ観光促進事業の整備のための費用といった当時のリゾートブームに乗った発想も目立つ。また『秋田県由利町の「ゆりの里作り」』、『秋田県雄物川町の「マツタケの里作り」』、といった「○○の里作り」や「日本一の水車作り、宮城県志波姫町」、「世界一の砂時計作り、島根県仁摩町」といったイメージやシンボルを作り観光開発を図ったところも多い。

A文化芸術振興

「城壁の整備」や「郷土資料館の建築」など地域の歴史や文化の保存や整備に使って市町村が全体の20パーセント近くを占めた。他にも「小泉八雲市民文学賞の創設、島根県松江市」「宮沢賢治賞の創設、岩手県花巻市」など新たに文学賞を創設し市町村の知名度を上げイメージアップを図った市町村が20近くもあった。

B自然環境整備型

自然公園の整備や森林の保護、「砂丘植物園の整備、茨城県波崎町」 など地域の自然保護に使った市町村が14パーセントとなった。また「千葉県一宮町、町をきれいにする 課の資金」などもあった。

C基盤整備

「道路整備、公共用地買収、集会所や町営住宅の建設」など地域の基盤整備に10パーセントが使われた。

D特産品の開発

「特産のポンカンやタンカンなどのジュース工場、鹿児島県上屋久町」など特産品などの地域名産品の関係が意外にも6パーセントにととどまったがこれは従来から市町村単位で行われてきたためだと思われる。また「農業生産コストの軽減のための調査、福井県坂井町」、「特産品のさつまいもなの病害追放のためバイオ栽培した無菌苗木を農家に配布、鹿児島県山川町」等新たに特産品を開発するのではなく、いまある特産品の改良に使われたものもある。

60年代の町づくりの歴史を見てみるとダムや空港やゴミ処理施設建設の反対を住民自ら行政とかっけあって住み良いまちづくり行うための住民運動といった形で行われていた。しかし80年代になると地域は自分たちの特色を他の地域に積極的にアピールする事でその良さを示そうという形に変わっていった。それを政府が後押しする形で行われたのが竹下内閣の「自ら考え自ら実践する地域づくり事業」すなわちふるさと創生構想であった。そのよう な新しいまちづくりを民俗学学者の安井眞奈美は次のように言っている。



そもそもふるさとと は時間的な経過のなかで思い描く記憶の中の存在である。ある人にとっては自分をあたたかく迎えてくれる安 らぎの場所であり、またある人にとっては忘れ去ってしまいたいような苦渋に満ちたものである。つまり場所 に限らず、個人の体験に根ざしたその人にとっての固有の存在がふるさとである。そのためふるさとは逃れよ うとしても簡単に逃れられない、人間関係のしがらみに満ちている。 いま巷にあふれているふるさととは、このようなふるさととはまったく異なっている。今日のふるさとは、ノスタルジックな雰囲気を醸し出すようにメディアが作り上げたものである。人は自分の出身地と関わりなく、 自由にふるさとを選択することが出来るようになった。金さえ出せば、誰でも新たなふるさとが買えるので ある。このようなふるさとは、メディアによって再生産され、現代社会のなかでひたすら消費される運命に ある。いわば「 消費型ふるさと」とも呼ぶべきものであるのだ。 ふるさと創生論以降の町おこしや村づくりは、このような「消費型ふるさと」をいかに創りだし、売り出していけるかにその重点が移っていった。いまや、ふるさとを商品化した「ふるさとビジネス」なる市場が存在しているのである。




四節 まとめ


つまりふるさと創生以降の町おこしは「ふるさと」を商品として加工し、どのような戦略を用いていかにして売り出すかに焦点が移っていったといえる。

当時の首相である竹下登はその著書である「ふるさと創生論」のなかでふるさと創生は単なる国土の開発や地域の振興の問題ではなく、日本人が日本人としてしっかりした生活と活動の根拠を持つ世の中を築き上げることだと主張している。しかしその理念を理解し、成功まで導いた市町村は少ない。だが三割自治と言われている地方の現状で中央から地方への一方的な政策決定過程を考えるという意味で有効であったといえるのではないか。

 

次に2章で大分県の一村一品運動について見てみる。


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第2章 大分県一村一品運動



一節 大分県の特徴


一村一品運動を考えていく前に当時(50年代)の大分県の経済状況を考えてみる。以下は大分県中小企業情報センターが昭和55年に発行した『ムラオコシ(内発的地域振興)の実践と理論』より一部引用、参考させていただく。

大分県の経済の特徴は他の市町村に比べて
@ 財政依存が大きい
A 移入が移出を大きく上回っている
B 生産機能が弱く工業が偏っている。
C 所得水準が低い
D 市町村間の所得格差が大きい
E 過疎地域が多い

 

こうした特徴は相互に関連しあっている。まず県民総支出に占める財政の経常支出と政府の固定資本形成の割合をみると大分県は昭和51年度には25.5パーセントに達している。全国平均が18.6パーセントであるからかなり高い水準にある。しかもこの数年間高い水準を維持している。

また県民総支出に占める純移出入の比率を見ると、昭和51年度にはマイナス27.5パーセント、と沖縄県のマイナス29.1パーセントに次ぐ移入超過になっている。移出が83.5パーセント、移入が111パーセントとなっており、移入が移出を大きく上回っている。

いま財政依存度と純移出入比率の相関を見ると、図1の通りである。総じて財政依存度の大きい県は純移出入で大きなマイナスとなっている。民間の経済活動の不足を財政でカバーしているのである。





図1 純移出入と財政依存

資料:経済企画庁「県民所得統計」より作成

また労働生産性を見ても大分県の第二次産業はきわめて低い。昭和51年度の数字では全国平均を100とした場合、大分県は58.5に過ぎない。こうした第二次産業の生産性の低さが他の産業の発展をも制約しているともいえよう。

以上のような経済活動の結果、大分県の所得水準は低い。全国平均を100とした場合、昭和51年度には一人当たり県民分配所得は75.1  一人当たり県民個人所得は81.2。昭和52年の人口一人当たり、課税対象個人所得は76.4という水準にとどまっている。

しかし、大分県の特徴は所得水準が低いだけではない。市町村間の所得格差大きいという特徴がある。人口一人当たり、課税対象個人所得について市町村間格差を変動係数によって他見と比較してみると熊本県、長崎県、宮崎県、鹿児島県などとともに大分県は格差の大きいグループに位置している。大分市の所得水準が高いのに対し、内陸部の市町村が低所得である為、市町村間格差が大きいのである。

市町村総数に占める過疎市町村数の比率が74.1パーセントと全国一高いというのも大分県の特徴のひとつである。そして過疎市町村の人口減少は著しく、昭和50年には県全体の30パーセントを割っている。反面、大分市の人口増加は著しく、55年には過疎市町村全体の人口に匹敵していると思われる。このように異常な過疎、過密の進展に歯止めをかけるためにも過疎地域の振興が必要である。過疎地域の産業を振興し、就業の場を確保するとともに、所得水準を上昇させ、あわせて移出入をバランスさせることが重要な課題であった。

   

 
二節 一村一品運動の展開



このような状況を背景として一村一品運動は昭和54年平松守彦(当時)大分県知事によって提唱された。

1つの村で1つの品物つまり「農産物でもよければ観光でも民謡でもよい、それぞれの地域の顔となるもの」を作り上げ全国的に有名にしていこうという運動である。

このように聞くと「一村一品運動」も単なる特産品作りに過ぎないと思われるがそれが単なる特産品作りとの違いを示す言葉として平松大分県知事はこう語っている。

「たとえば東京名物に『虎屋のヨウカン』があります。大変おいしいし、全国にその名を知らしめています。がこれは一村一品とは言えません。私の言う一村一品とは、大分の例をとれば“大田村の生しいたけ”や“千歳村のはと麦味噌”“国東町のキウイフルーツ”などに代表されるものなんです。
『虎屋のヨウカン』とどこが違うのかというと、その町や村の若者たちが自分たちの努力で作り出し、それによって地域に活力がみなぎって、若者が定住していくという点です。こういう活力、やる気を起こすところに一村一品運動の主眼があるわけです。
「地方からの発想」より




一村一品運動は山間僻地が多く産物の乏しい大分県において農山村の余剰労働力を生かして産業を起こし、農家の所得を増やすこ とによって結果的に過疎化傾向歯止めをかけようとする、「村おこし」の精神運動の意味をもったものである。 しかしながら、一村一品運動は精神運動であると同時に、特産品づくりの実践活動でもあって、実際に優れた産品を生み出すこ とのよって全国的な評価を受けそれが「村おこし」の気運にいっそうの拍車をかけるという、よい循環を生む結果となった。しか も大分県の一村一品運動に幸いした事はこの運動が起こった時点ですでにいくつかの特産品が地歩を固めつつあり、それが牽引車 となっていっそう運動の評価を高めたことである。

食品関係では質・量ともに日本一を誇る乾しいたけ、時代を先取りした大山町の工場生産のエノキダケ、昭和50年代初めに柑橘類 の転換作物として導入された津久見市のサンクィーンや国東町のキウイフルーツ、長年の苦心の末に軌道に乗った姫島の養殖車えび 等があった。また工芸品では古くから伝統のある別府の竹細工を始め、日田の陶器、木履、家具等があった。

このような特産品作りは、昭和54年に平松知事が「一村一品運動」の呼称を与えてからいっそう活気を帯び、相前後して、かぼす、 豊後牛、吉四六漬、麦焼酎などが一村一品銘柄として県内外の流通経路に乗り、高い評価を獲得してきたのである。

   

いわゆるCI(コーポレートアイデンティティ)が企業理念の確立によって企業に対する企業に対する社員の一体感を育てる行動であるのに対し、一村一品運動はCI(コミュニティ運動)、地域文化を確立し自分たちの地域に誇りを持って生活して行こうという運動であるといえる。


 

  
三節 運動が与えた経済効果





一村一品運動は全県的規模で展開されて一村一品産品(1次産品と1.5産品を含む)は、11市47町村で255品目を数え、 その年間販売額は昭和60年度で739億円に達している。その中には乾しいたけや豊後牛、竹細工のようにある地域全体の特 産品であるものや麦焼酎、吉四六漬、手作りハムのように単位事業所または個人企業の産品が地域を代表する形になっているも のまでありさらに鯛生金山地底博物館のような観光資源まで含まれている。

つぎに一村一品の流通形態のうちで1つの特徴的な販売形態である物産展の実態を以下の表で見てみる。

<表1 大分県物産展実績表>
                     
昭和 (年度)開催回数催延日数出品金額  (円)販売金額  (円)
51年度21 回126 日137,807,22056,169,212 
52  27 148 179,413,21094,690,791 
53  26 149 233,571,845110,619,195
54  26 145 218,253,18099,018,561 
55  27 150 259,253,995121,553,153
56  23 138 289,263,070145,973,190 
57  32 179 532,660,260217,991,604 
58  30 180 717,871,525298,138,033 
59  34 229 801,423,150352,108,917 
60  29 170 969,416,704369,262,323
資料:(大分県物産協会定例総会議案書より抜粋)



県産品の物産展は県物産観光館と物産協会の主要な活動であるばかりでなく、県産品を宣伝紹介して一村一品運動の名称を広 く全国に広めたという意味からも非常に重要な役割を果たしてきた。その特徴は大分県一村一品運動に対する大消費地の関心 や評価をうかがわせるものであり、貴重な情報を提供してくれるものである。51年から60年の開催回数や出品金額と販売 金額は上の表1に示したとおりであるがこれを見て明らかなように一村一品運動が始まった直後よりも運動が全国的に知れ渡 り一種のブームを巻き起こした昭和57年からの方が開催回数販売金額の伸び率が大きくなっている。




一方この間の行政の対応はどのようであったのか。一村一品のおよび物産関係の県事業予算額を見ると昭和57年度関連事業 数24件、予算総額はおよそ5億7900万円、昭和58年度は事業数28件で予算総額約8億5700万円、そして昭和59年度は 事業数29件、予算総額は7億100万円であった。

そのなかには「一村一品の船運行事業」(58年度)、
「一村一品流通対策事業」(59年度)、
「一村一品運動推進事業」(57年〜59年度)
「大分県郷土特産品コーナー設置促進事業」(57年〜59年度)、
「大分フェアー開催事業」(57〜59年度)、
「一村一品強化資金利子補給事業」(57〜59年度)、
「フライト団地育成事業」(57〜59年度)などが含まれている。

知事は最初、住民を運動に向かわせていく為にこのようにはっぱをかけている。

一村一品運動は私のためにやってくれというと言うのではない。やりたくないところはやらなくてもよろしい。一生懸命、地域づくりに取り組んだ所は人口が伸びるだろうし、そうでないところは過疎が続く。過疎が続けば、小学校は複式学級にもなるだろうし、医者もいなくなる。しかしそれは、自分たちが何もやらなかった結果であって、そのときになって県に応援くれといってもやりようがない。どの村が何を一品に選ぶかは自分たちのリスク(危険)とアカウント(勘定)でやってもらいましょう。


これらの事業について共通して言える事は平松県知事の信念でもある「自主自立」の精神が貫徹している事である。

  
 四節 前章、ふるさと創生金との比較



ここで先に述べた「ふるさと創生金」と「一村一品運動」について比較してみる。

ふるさと創生金
地域に固有の地理的、歴史的条件を生かし、地域の主体性と創意工夫を機軸とした地域づくりを目指す。
使途は市町村が住民の意向を取り入れて決定する。
費用は一律1億円
行政主導、先導型

一村一品運動
その町や村の若者たちが自分たちの努力で作り出し、それによって地域に活力がみなぎることによって、若者の定住を目指す。
きっかけは知事のコメントによるものだが住民が計画と実行に責任を持っている。
費用は運動が軌道に乗ってからの必要最低限の資金援助や技術指導
結果に対する責任は住民が負う、住民主導型


東京への一極集中是正や地方の特性を生かし、過疎化を防ぎ、住民のよりよい生活を目指す、といった同じような理念を抱えているがその手段や取り組む姿勢が大きく異なる。

ではなぜ一村一品運動は成功したのか。

先ほど平松県知事の運動への姿勢として「自主自立」を挙げたが単に住民に丸投げし責任を負わせていたのではない。
そこで成功のポイントは    @ 「最低限の財政支援」 
運動が軌道に乗る一歩手前まで成長した段階ではじめて必要最低限度の財政的支援を行うということである。もし県が補助金を出すとなるといったん補助金が出なくなると「それじゃあやめるか」ということになる。また作った物が売れなければ県が「買い上げてくれ」となる。このような極端な行政依存の状態では住民が責任と覚悟を持って町おこしを行っているとは到底いえない。

A 「上級行政庁である県の役割を限定」 
第一章でみた「ふるさと創生金」の場合にも注意して行われていた上級行政庁が必要以上に市町村に口出しせず、その役割を相談や情報提供、技術指導などの範囲にとどめた事。またふるさと創生金と異なる点としてその運動の責任は自己責任である事を住民に徹底的に理解させたことである。

B 「地域リーダーの育成」 
当時、大山町や湯布院町では地元の若者が積極的にグループを作り地域活性化のための研究会や実行活動に取り組んでおりそれがよい結果を生んでいた。そこで知事自ら全県下を行脚して住民の自主的な立ち上がりを促したり、昭和58年度から自ら塾長となって地域の若者を集め「豊の国づくり塾」(県広報公聴課と県内12県事務所)を開き各市町村ごとの運動の中核となるリーダーの育成にも力を入れていた。その集まりの内訳は以下の表にまとめておく。

<豊の国づくりの開塾年度及び塾生数>                          
塾名開塾年度塾生数
日出塾58 年度31人
佐伯塾58 年度30人
日田塾58 年度32人
国東塾59 年度33人
大分塾59 年度37人
竹田塾59 年度34人
玖珠塾59 年度34人
中津塾59 年度34人
高田塾60 年度36人
臼杵塾60 年度31人
三重塾60 年度40人
宇佐塾60 年度49人
資料:「大分県一村一品流通システムと地域の活性化より」
 


その後、大分の一村一品運動は過疎に悩む地域の活性化のカンフル剤として以下の表に示すとおり全国に広がった。
                       
<一村一品を取り入れた都道府県>
北海道 北海道一村一品運動 和歌山 ふるさと産品
青森県 水産加工活性化事業 島根県 むらまち自慢のれん市
岩手県 ふるさと特産品振興事業 岡山県 「みなおそう岡山」推進事業
山形県 一地域一産地事業 広島県 広島ふるさと一品運動
福島県 ふくしま・ふるさと産業おこし運動 山口県 特産品を見直す運動
千葉県 ふるさと産品育成事業 香川県 特産の里作り推進モデル事業
神奈川 神奈川名産50選 愛媛県 特産銘柄産地育成事業
富山県 特産王国作り 佐賀県 佐賀農業産地づくり運動
長野県 村おこしモデル事業 長崎県 ふるさと産業振興運動
静岡県 ふるさと産品育成事業 熊本県 くまもと日本一作り運動
京都府 ふるさと産品開発運動 宮崎県 新ひむかづくり運動
奈良県 山村地域特産物振興対策事業 鹿児島 ふるさと特産運動
資料(財)地域活性化センター調べ


北海道ではそのまま一村一品運動、また各地で名称は様々だが一村一品運動を地域づくりの手段として導入しようという自治体が増えた。いまでは平成元年には全国の7割が何らかの形で一村一品運動と同趣旨の運動を展開している。



結論






ローカルにしてグローバルな評価に耐えうる産品、観光、文化などを作り出しそれによって地域を活性化させる のが目的だった一村一品運動はさして資源も観光もない大分県の住民にいい意味での競争意識が生まれ、やる気が起こっ たのは事実である。昭和60年度の実績で10億円以上の販売額を実現した物をあげると宇佐市の麦焼酎、別府市の竹細工、 蒲江町の養殖ぶり等、15件に及びさらに1億円以上となると100件を越すのである。

しかし大分県の市町村は新産都やテクノポリスにおける展開を除けば農林水産といった一次産品の生産が基本であり、そのため 一村一品における産品は一次産品が過半数を占めており、付加価値の高い1.5次産品を作っていく必要がある。 ものだけの点から見ると大分県の一村一品はしいたけ、かぼす、城下カレイといかにも小規模で他県 の名物や銘柄品と比べるとまだまだひ弱く、県民所得をとってみてもさほど増えていない。また過疎率は依然として全国2位 と高く何品かの産品が成功しているにすぎない。だがそれぞれの地域が創意工夫でその地域にしかないものや観光を売り出しそれによっ て地域の人たちが充実感を持ち、経済だけの豊かさではなく心の豊かさを考えていく為には大きなきっかけとなった事は間違いない。
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第3章 町おこしの具体的事例 湯布院 




まず町おこしをどのように捉えるかを定義しなければならない。従来、この言葉は漠然とした地域の活性化を指して使われている。例えばイベントや○○祭りなどによって一過性の活性化を意図しているものもあるし、町の特性を生かして継続的な産業を起こそうとするものもある。しかし1章でも見てきたように「国土の均衡ある発展と健全な地方自治」を目指した町づくりが行われた観点からここではある期間に集中して観光客を呼ぶといった一時的なものでなく、産業や観光業を行い永続的なまちづくりを目指しているものについて考える。そしてどのようなきっかけで町おこしとは誕生するのかを背景を含めて考えていく。



一節 湯布院地域の当時の背景 



湯布院町が他の市町村と際立った対照を示す、特異なまちづくりないし村おこしの様相を呈すようになったのは、何よりも5期19年(昭和30年より49年まで)続いた岩男町長の影響によるところが大きい。由布院町、湯の平村が合併して、新しく湯布院町が誕生した時点からの長期政権であるだけに行政の動向が町づくりの方向や気風を大きく左右しとことも無理からぬことである。岩男町長の影響を受けた由布院盆地の若手の旅館経営者を中心に「由布院の自然を守る会」が発足(昭和45年)し、翌年「明日の由布院を考える会」へと発展してゆき、地域独自の論理に基づく自然環境の保全、それに依拠した新しい観光地作りの運動を展開して、この住民運動は湯布院の地域づくりを全国的に有名なものにした。この住民運動グループは前町長の強烈な個性に触発され、そのご「牛一頭牧場」や「牛食い絶叫大会」など行政よりむしろ住民主導の形で地域づくりのイメージ付けがなされてきたのがこの町の特徴である。その後町長が国会議員として転出した後も昭和51年に全国各地の研究者、実務家、200人余りが一堂に介した「湯布院シンポジウム」が開かれ、湯布院及び、周辺地域の活動家や行政担当者に波及効果を及ぼした。



観光地という本来の性格からして広く全国各地から多くの人が訪れるのは当然であるが隣の別府のような歓楽方型ないし団体旅行の温泉地と異なり、湯布院は落ち着いた田園の環境と滞在保養の色彩が強い温泉地であるから文人をはじめとする都市の芸術家、学者なども相当、個人的にやってきたため全国各地の地域づくりの情報センターとしての役割を担ってきた。また湯布院は前章でとりあげた平松県知事の「一村一品運動」と並行して行われてきたため県内各地の産物が販売され、周辺地域のショーウィンドウとしても機能してきたのである。



二節 経済状況



湯布院地域は大分県の中では工業化されていない地域に属している。人口の減少ないしは停滞地域であり、産業の振興による就業の場の確保が必要であると思われる。

当時の湯布院地域の土地の利用状況は下の表1が示すように宇佐市を除いては山間部での林野の比率が圧倒的に大きく、耕地の比率は大きくない。特に大山町における田の比率は3.2%にすぎない。農業依存は容易ではないがさりとて大規模な工業化は難しいということが明らかである。したがって高度成長期を通じて人口は減少をたどってきた事がわかる。



<表1 50年代の湯布院地域の土地利用状況>            
総面積(ha) 耕地(%) 林野(%) その他(%)
宇佐市 17,770 36.5(27.6) 38.4 25.1
湯布院町 12,798 8.8(4.9) 86.1 5.1
玖珠町 28,768 8.6(6.6) 83.5 7.9
大山町 4564 10.2(3.2) 80.7 9.1
安心院町 14,523 17.2(12.0) 69.5 13.3
資料:大分県調べ、 『村おこしの実践と倫理』より
(注)(  )内は田




また以下の表2が示すように昭和50年までにはいずれも減少していることがわかる。しかし昭和45〜50年と50年〜54年を比較すると宇佐市、湯布院町、玖珠町で人口は増加に転じている。また大山町と安心院町でも人口減少率が鈍化している。





           
<表2 当時の人口の推移>
35年 40年 45年 50年 54年 45〜50 50〜54
宇佐市 62,437 55,370 51,942 50,677 51,293 △1.2% 1.2%
湯布院町 12,682 12,595 12,025 11,371 11,991 △3.4% 5.5%
玖珠町 28,300 25,565 23,828 22,369 22,578 △6.1% 0.9%
大山町 6,168 5,755 5,118 4,701 4,576 △8.8% △2.7%
安心院町 15,048 11,570 10,291 9,814 △11.1% △4.6%
資料:50年では総理府「国勢調査」
    54年では大分県資料
引用  『村おこしの実践と倫理』より




それでは経済活動はどのように行われていたのであろうか。まず昭和51年の純生産の産業別構成を見るとの通りである。一見して明らかなようにどの市町においても第一次産業の比率が相対的に高い。そして第二次産業の比率が低く、反面第三次産業の比率が高い。これは湯布院を除いては第三次産業の活動が活発であるというよりは第二次産業の機能が弱体であることの表現だと見てよい。とくに安心院町と玖珠町では第2次産業の弱さが目立っている。第二次産業のなかではそうじて製造業の比率が低いが湯布院町と安心院町の比率の低さが特に目に付く。また純生産と就業人口の産業別分布の推移を見てみると図4と図5になる。



図4 産業別純生産の推移
『村おこしの実践と倫理』より作成



図5 就業人口の産業別分布の推移
『村おこしの実践と倫理』より作成



<表3 当時の農業の専・兼業状況>            
世帯数 総農家数 農家比率 専業農家数 専業率 兼業農家数 第2種兼業 第2種兼業率
宇佐市 14,971 7,715 51.5% 1,258 16.8% 6,457 4,656 60.3%
湯布院町 3,195 1,006 31.5% 94 9.3% 912 564 56.1%
玖珠町 5,939 2,858 48.1% 421 14.7% 2,437 1,412 49.4%
大山町 1,058 710 67.1% 27 3.8% 683 522 73.5%
安心院町 2,851 2,249 78.9% 394 17.5% 1,855 921 41.0%
資料:大分県農業センサス引用:『村おこしの実践と倫理』より




まず農家比率が極めて高いことが目に付く。最低の湯布院町ですら31.5パーセントに達している。しかし専業農家の比率は低く、やはり第2種兼業の比率が高くなっている。とくに大山町においては第2種兼業の比率が高い。また経営耕地面積が1ヘクタール未満の農家の比率が大山町の86.9パーセントを筆頭にして湯布院町77.9パーセント玖珠町70.6パーセント宇佐市69.9パーセント安心院町57.9といずれも過半を占めている。自立できない零細経営の比率が高いのである。兼業比率が高いのも当然であろう。以上のことから当地域においては農業依存には限界があることが見て取れる。

さてこのような経済状況を反映して当地域の自治体の財政力は強くない。このままの状況で国の所得再配分を期待していたのでは現在の経済水準を維持することも難しいだろう。

もちろん自立的産業をおこすといっても現時点で産業化を進めるには既存のタイプの産業化とは異なった産業化を指向せざるを得ないであろう。とくに小規模な地域においては地域になじみ地域社会を形成していくタイプの産業を展開していかなければならない。

それでは具体的に湯布院のまちづくりがどのように行われたのか見ていく。



三節 まちづくりの具体的歩み

   

湯布院は温泉の湧出量が全国第二位となる温泉地である。    
しかし隣の別府市と比較すると別府が大型歓楽施設であるのに対し湯布院は戦後一貫して自然環境を観光資源とした「保養温泉地」「生活観光地」を中心としたまちづくりが行われてきた。しかし環境を存分に味わうことを中心とした観光が軌道に乗り成功していくとそれを目当てに企業が集まり、大開発が行われてしまう危険性との戦いでもあった。



そこで時期を以下の3つに分類して見ていくことにする。


@ 岩男町長を中心としたハードの時代(1950年代)
A 住民グループによる環境保護を中心としたまちづくりの時代(1970年代)
B 町づくり完成の時代(1980年代)



@ 岩男町長を中心としたハード整備の時代


1955年に湯平町と由布院町が新市町建設促進法に則って合併した結果、湯布院町は誕生した。この時期に岩男町長によるまちづくりが始まった。町長はまず荒れた農地に対する補償や町全体の基盤整備のために国連軍が日出生台で演習を行っていたことに関して補償運動を起こした。この結果1960年(昭和35年)から1976年(昭和51年)の間に約29億円もの補償金が支給され、町の道路などの地盤整備や公共施設の建築などが行われた。また自衛隊を誘致することで1957年(昭和32年)より国有提供施設等所在市町村助成交付金が交付されまちづくりの資金となっている。岩男町長のまちづくりは湯布院町が基地の町であるという特性を生かし、中央政府から補助金を集め、その資金で町の基盤を作るハード面の構築であったといえる。

また一方で町長は湯布院の自然環境保護にも力をいれている。1970年(昭和45年)高原湿原で有名な猪の瀬戸にゴルフ場の建設計画が持ち上がった。この保護に立ち上がったのが植物学者や自然愛護者、そして湯布院町の旅館経営者たちが中心となって「由布院の自然を守る会」であった。この反対運動をうけて町長は重要な自然保護会の会長としても保護を訴え、県内の自然愛護の会に協議会を持ちかけ、猪の瀬戸の保護運動盛り上げる事を決議させた。また大分県町村会議においても熱心に猪の瀬戸の保養を呼びかけている。

町長の政策方針をまとめると第一に「自衛隊の誘致」を行うことで町全体の雰囲気を一新し、加えて資金の調達を図った。当時の湯布院地域の財政状況の厳しさは上で述べたが湯布院地域は零細経営の農家が多いことから農業依存型の生活にも限界があったからである。第二に基地関連の資金で湯布院がもつ自然を観光資源として外部資本に頼らない「観光のまち」を作り上げようとした。



A 住民グループによる環境保護を中心としたまちづくりの時代(1970年代)


上で述べたゴルフ場建設反対の時に旅館『亀の井別荘』を母から受けついだ中谷健太郎と妻の実家である『玉の湯』の経営に加わっていた溝口薫平を中心メンバーとして湯布院町観光協会に「湯布院の自然を守る会」は結成された。

会は反対運動を同時に住民と行政の二つの方向に向けていった。まず住民の側として若手住民グループが反対運動の事務局をつとめ、各新聞への猪の瀬戸保護を訴える投書、著名人100名へのアンケート、町内建築業者の会に出席して町づくり、家造りの意見を述べるなど町内外に問題をアピールする動きを起こした。町民の意見として新聞紙上に発表するよりも各界の著名人がより多くの人たちを動かせるという戦略であった。その流れを受けて行政側も動きだした。別府市議会において市長が開発に際して自然を損なわないようディベロッパーに要請、「由布、鶴見の自然を守る会」が厚生省、大分県、別府市に陳述書を提出、湯布院の岩男町長も大分県町村会議で反対運動のバックアップを決議すると県知事も反対の立場を表明し開発計画を中止に追い込んだ。 

その後「湯布院の自然を考える会」は自然を守るという消極的な守る姿勢から積極的な企画、つまり創る姿勢として「明日の湯布院を考える会」に変貌をとげていった。この「明日の湯布院を考える会」は様々な職種、地域、性別の人間が集まり「私的な公聴会」という性格のものであった。当時の湯布院は「自然を売り出した観光地」、といってもいまだ観光地としては確立していなかった為、ある程度、町の発展の為に開発は必要であった。開発と自然保護という相反する目標を果たす為、「町を創ることで自然を守る」という姿勢で町づくりに取り組んでいったのである。その後、マスコミの人脈を利用して辻馬車や湯布院映画祭などを成功させた。



B 町づくり完成の時代(1980年代〜90年代)


湯布院は上で述べたほかにも何度も開発計画や町の風紀を乱す恐れがある大型観光ビルの建設計画が持ち上がりそのたびに開発業者と町づくりグループとの戦いがあった。80年代に大分自動車道別府湯布院間の開通、特急「湯布院の森号」が走り交通の面で整備が進み湯布院は観光の町としての立場を確立していた。ところが中央政府では中曽根内閣が1987年(昭和62年)第四次全国総合開発計画が発表された。さらに「総合保養地域整備法」(リゾート法)が制定されその開発の波は大分県にも及び、1989年(平成元年)、大分県に「別府くじゅうリゾート構想」が承認された。それに伴い土地の買占めがおき、地価が高騰したのである。たとえば平成二年の地価基準値対前年比において商業地が54.1%、住宅地が35.0%、林地が25.0%を記録している。また開発業者が分譲別荘、リゾートマンションの申請数は3635戸、町の世帯数が3685戸とほとんど同数である。これが完成すると癒しの里としての湯布院の立場は崩れてしまう。そこで役場は「高さを5階以下にすること」「周辺住民の同意を得ること」を内容とする条例案を作り上げた。しかし横だし条例、上乗せ条例は法律的に無効であり、建設省から改定を求められた。しかし町側が粘り強く条例の必要性を訴えることで最終的には一部を変更し「潤いのある町づくり条例」は無事成立した。



まとめ


なぜ湯布院の町づくりは成功したのだろうか。

第一点として1970年代の町づくりの始まりの時期から1990年代に「潤いのある町づくり条例」ができるまでの間、中谷健太郎や溝口薫平が中心となって活動を行ってきた点があげられる。町に対する明確なビジョンを持つリーダーたちが長年にわたって住民の先導役として果たした役割は大きい。条例の制定について建設省に改定を求められたときもリーダーたちの助言をうけ、自分は自信が持てた、と当時条例作りに携わった役場職員は語っている。

第二点としてリーダーたちには町づくりの草創期とも呼べる時期から明確なビジョンを持っていた点があげられる。そのビジョンは他にはない湯布院の地域らしさを前面に押し出す「自然の癒し」であった。中谷たちは1971年、保養温泉地として有名である、ドイツのバーデン地方へ視察旅行に行っている。その後、隣の別府温泉と比べ、寂しい感じがした湯布院の違った魅力を再発見するのである。

第三に行政が補助的役割に徹したことがある。町の基盤整備を行った岩男市長の時代を除いて行政や議会は町づくりのサポート役に回ったことである。当時から『町議会議員は行政機関と住民との間の意思疎通のパイプ役を果たしていないことが指摘されていた』と湯布院の自然を守る会の広報誌である、『花水樹』に記されている。町づくりグループの意向がそのまま湯布院で正当性を得ることで行政や議会がそれに合わせていった傾向がある。また正当性を得る為にマスコミや著名人たちをうまく利用していったのも彼らの戦略である。

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第4章 企業参加型の町おこし





一節 三井物産と地域の関わり方



第一章「ふるさと創生金」、第2章「大分県の一村一品運動」で行政主導型の町おこし、第三章で「湯布院」の事例から地元のまちづくり集団を中心とした住民主導行政協力型の町おこしを見てきた。これらの事例をとして見えてきたことはやはり行政による「地域経営の難しさ」、「住民参加型の難しさ」である。湯布院のケースでスタートから住民たちが独自のビジョンを持ち、自己の責任と判断でまちづくりにあたって成功まで導けるケースは珍しい。

しかしこれからの地域活性化を考えていく上で町おこし、村おこしが必要だと思われる過疎化、高齢化してしまった村の住民に事業の経営、業務を全て任せるのでは現実性がない。

そこで第4章では三井物産事業部「ニューふぁーむ21」チーム(以下三井物産と略)による「企業による町おこし」を見ていく。三井物産という世界の大企業が過疎地の地域経営に乗り出しているということにまず意外さを感じる。しかし1980年代のふるさと創生金の時代から様々な自治体がその使い道をコンサルティング会社に委託していたという経緯から見ると不思議はない。

しかしこれから取り上げる三井物産と他のコンサルティング会社の役割は徹底的に異なる。





大きな違いは他のコンサルティング会社はプロジェクトの企画書を提出し、その内容をクライアントである自治体が了解した時点で契約が終了することに対して三井物産はプロジェクトの計画だけでなく実行、検証まで行っている点が特徴的である。

具体的な考察は第二節で行うが上で指摘した「住民参加の難しさ」を克服する工夫もなされている。また新たな行政と民間の経営手法も見ていく。



二節 赤坂町と由仁町の事例から 



岡山県赤坂町は人口約5,000人、世帯数 は1,700世帯、面  積 42.99平方Km。町の62%は山林で水田が400町歩、畑は50町歩で主な産業は米を中心とした農業の町である。ここに年間1200トンもの米を消費し、一日に約5万食を供給している炊飯加工工場がある。

赤坂町の経済的状況や町おこしにいたった背景を見ていくうえで以下は平成9年8月8日に農林水産省で行われた「第三回食品産業地域活性化研究会議事概要」から引用させていただく。




赤坂町の経済循環構造




町のとる様々な政策の効果は次のようである。公共土木工事では工事費の1割しか町に落ちていない。企業誘致については、雇用効果はほとんどなく、見るべき成果はあがっていない。

平成6年の赤坂町の総生産額は158億円、町民所得は131億円であるが、町民所得は町外に働きに出ている人の所得が中心であり、総生産額としてはそれなりの数字があるものの、それが町民への分配所得となっていない。また、赤坂町での販売はわずか6%であるため、町民の得る所得は、労働賃金程度にとどまっている。つまり、町内で経済が循環しておらず、製造業は基盤産業とは言えない。

では町の基盤産業は何かというと、農業である。農業の町内総生産額は14億円で、農業からの町民所得は7億1千万円ということからわかるように、数字は小さいながらも所得に与えている影響が非常に大きい。このことから、赤坂天然ライスを設立することとした。



株式会社赤坂天然ライスについて
 

平成7年3月に設立し、10月から操業を開始した。町有地に工場をつくり、第3セクターに管理を委託している。

@地域の米を使う、

A農家の主婦の働き場所を確保する、

これが行政目的である。 

工場長、製造長は芙蓉物産から来てもらっている。また、従業員はすべて芙蓉の社員として採用し、赤坂天然ライスへ出向という形をとっている。労働条件としても、芙蓉の社員管理をそのまま採用し、民間企業の持つ厳しさの中に身をおいて働いてもらっている。 販売については、芙蓉物産の持っている販売ルートにのせるとともに、独自のルートを開拓した。 

現在、売上高は12億円であるが、町内の他産業への生産波及効果は1億2,564万円である。発泡スチロール、包装容器等をすでに町内に進出している企業から買い入れているためである。また、所得誘発効果は1億3,135万円である。現在、農家の主婦を37名雇っており、これを50人や60人にしたいのだが、高齢化の進展やすでに働く場所を持っているという理由から、なかなか増えないでいる。 

同規模の売上をあげる赤坂町での従来型製造業を誘致したと仮定した場合に比べると、町内の他産業への生産波及効果や所得誘発効果、雇用誘発効果が大きく、一応の所期の目的は達成できたと考えている。 

平成9年3月からは、県経済連と協力し米の販売も始めた。町の米は全量買い取り、他町村(赤磐郡等)からも米を買い取っている。利益を多く得ることではなく、米の継続的な販路を得ることが目標である。赤坂天然ライス設立前7億1,000万円であった農業総生産が8億9,000万円となった。会社の利益を町に還元し、作付け前の奨励金等にそのお金を使うことと、会社での労働賃金として町民へ還元されている。 

共通作物である米に着目し、加工、販売を行っているのだが、思い切って民間と提携し、ノウハウを得ることも良いことだと思っている。それが正しいかどうかは将来決定されるだろう。 農家の意欲が出てきたことは確かである。Uターンで農業を始める人もわずかながら出てきた。 行政が食品の流通をどう位置づけるか。民間のノウハウを借りるか、一緒にやるか、方法はいろいろあるだろうが、赤坂町では町としての考え方を現在実践しているところである。




この工場は上に示してあるように町おこしの一環として行政が三井物産に企画を依頼し、経営を芙蓉物産に委託した第三セクター方式で運営されている。資本金7000万円の比率は赤坂町51%、芙蓉物産39%、三井物産10%となっている。

「農業の振興」という行政目的を果たす為に

@ 農協を通した正規の価格で地元米を買う。

A 外から安い労働者を引くのではなく地元の農家の主婦を雇用する。


といった厳しい条件の中、平成7年(1995年)10月より操業を始めて初年度の売り上げは5億8000万円。2年目が13億円。この年より5%の配当を始める。そして3年目には18億6000万円。平成11年の利益率は約3%。またこの間、赤坂天然ライスは町に対して、売り上げがもたらす経済利益のほかに5300万円の寄付をしている。



次に北海道の由仁町の事例について見ていく。

由仁町は、北海道空知管内の最南端に位置し、ひょうたん型で東西に8km、南北に32km総面積133.86ku、南北には夕張川が流れ、南東部の森林地帯は夕張山地に属し、西部・南部に、馬追丘陵が広がっている。人口は8000人弱。

基幹産業は米であり他にジャガイモ、とうもろこし、たまねぎなどを栽培している。特徴をあげるならゆんにの湯という温泉とゴルフ場があるだけであった。この特段の特徴がない町であった由仁町と、平成6年5月19日に三井物産と農業活性化の業務提携を結んだ。

これまで町は地域の活性化のために平成元年(1989年)に「由仁町新総合振興計画」を策定し、健康元気作り事業、広域環境整備事業、商店街整備事業、農業振興事業などを展開していた。たとえばテニスコート、野球場、キャンプ場などを併設した伏見台公園の整備、花卉の栽培や食べられるホオズキの開発も行っている。

平成6年、この町にプロジェクト概算事業費40億6000万円、日本一のハーブガーデンを作ることになった。
費用の内訳は用地買収や工事費などガーデン整備、交流施設や温室、食堂の建設などのハード部分の総工費とこれ以外にこの事業の運営会社「株式会社ゆにガーデン」の資本金として9000万円などである。下で事業の設計図を紹介する。



「ゆにガーデンHP」




この40億円の大プロジェクトの資金の大半は農林水産省から中山間地総合整備事業、農山村地域就業機会創出緊急特別対策事業、構造改善事業、そして建設省から都市公園事業、自治省からは過疎債と政府の補助金でまかなわれている。

官と民で協力して事業を起こす場合、赤字が出た場合、行政が負担し、その後、採算が合わないにもかかわらず責任追及を避ける為に経営を継続し、その補填のために自治体が身動きできなくなってしまうケースが多い。

そのような失敗に陥らない為に管理運営は徹底的に民間である東武ランドシステム(株)に任せ、運営会社由仁ガーデン(株)を平成9年に設立しガーデンハウス設計の段階から民間のノウハウを取り入れた。運営会社の資本金は9000万円。出資比率は由仁町51%、JA由仁11%、東武ランドシステム(株)33%、三井物産5%なっている。



三節 行政との比較において三井物産の特徴 



なぜ三井物産による町おこしは成功し、行政による町おこしは失敗しているのか。その点を考えるにあたって行政型による町おこしの失敗の原因を考えてみる。

@ 長期的展望の欠如

A 前例主義による横並び発想

B コスト意識の欠如



この行政システムの欠点を一つずつ克服している。

北海道由仁町の事例で取り上げたがハードとしてのハーブガーデン完成以前に「ゆにハーブの会」と「フレグランスの会」の二つを前衛的プロジェクトとして取り組んだことである。この二つの会は町民によって運営されているが町の巨大プロジェクトは「ハーブのある町づくり構想」の成功を担っている。上であげた行政システムの欠点として「長期的展望の欠如」をあげたが行政はハード施設の完成のみに重点を置き、その後どのように町おこしを行っていくのかという視点が欠けている場合が多い。

しかしハード建設の完成の前段階から住民を巻き込んでいくつかのプロジェクトをスタートさせ、生産農家の育成、ハーブ加工の方法を普及させることでハーブ園建設後の円滑な運営が行われるように意図されている。他にもガーデンニングコンテストを行ったり、ガーデンニング教室を開いたりとハードを生かすためのソフトの部分にも力を注いでいる。

また行政は施設完成後に運営方法や役員を決めるケースが多いがそのため責任の所在が不明確になってしまう。施設が完成する前の早い段階で運営会社を設置し責任を明確にし、完成前に長期的展望を持つためにも必要である。


第二の欠点として行政の前例主義による横並び的発想があげられる。これは全国、同じ行政サービスを受けれるという「公平」の観点では効率的であるが町が事業立ち上げる際には大きな障害となる。

ふるさと創生金の交付で全国に同じような施設が建設されそのほとんどが失敗しているのにもこのような横並び的発想によるありきたりのものを作り上げたことに原因がある。全国で始めてのものを創り上げるということは労力やリスクが大きい分、見返りも大きい。岡山県の赤坂町の事例で町の基幹産業である農業について取り組むというその大胆な発想にポイントがある。基幹産業でない所で町おこしを行ったなら必然的に小規模な規模になってしまう。しかし町の基幹産業に手をつけるというリスクも大きい分、町全体のレベルを向上させることができるのである。


第三の欠点として「コスト意識の欠如」があげられる。行政が町おこしを行う場合、徹底した利益の追求は行わない場合が多いがその欠如によって継続した事業を行うことができなくなってしまう。行政の役割の特徴としてコストに見合わない業務を行わなくてはならないという宿命からコスト意識が欠如してしまう。

従来の第三セクター方式で行われてきた事業は赤字を行政が丸抱えしてきたケースが多い。しかし三井物産チームは同じ第三セクター方式を使い、行政はハード建設の責任を、民間は経営の責任を両者が負う形でバランスをとっている。つまり行政の弱さである「コスト意識の欠如」を経営を全て民間に任せることでカバーし、ハード建設の資金を国の補助金または地方の財源でまかなうことで減価償却がない分、有利にビジネスを行えるという利点があるのである。

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第5章 まとめ



おわりに







現代では高度経済成長時代の新興住宅地などによる急激な開発が行われ、地域共同体が持っていた様々な役割も失われてしま った。そしてインターネットや携帯電話の普及によって第2次の地域共同体の破壊が起きている。確かにネットや携帯で瞬時に世界中 とつながることはできるがその事によって自分の今住んでいる地域が見えていないのである。そして地域が崩壊したことによって地域 が持っている子供の教育的側面が失われてしまった。『地域崩壊』は「『学級崩壊』や『家庭崩壊』にもつながっていくことである。 この3つ社会的ゆがみの中で育ってきた子供たちがおこす犯罪もそんな所に原因があるのではないか。


そこで今こそ必要なのが地域の活性化、つまり「町おこし」である。しかしそれはバブル期の「ふるさと創生金」を代表とする箱物、 いわゆるハード面の開発ではなくソフト面の開発である。そして今求められているのは、町おこしがもたらす経済的な効果だけではなく、 「心のつながり」なのである。例としてはヨーロッパで始まったグリーンツーリズムがある。それは「農山漁村などに滞在し、その地域 の農林漁業を体験したり、自然・文化・人々との交流を楽しむ旅」という未来型のリゾート計画といえる。なぜなら地域が崩壊し、過疎 化が進んでいる地域に都市から人工的なものに疲れ、農業などの実質的な要望を満たす為に新しい「リゾート」として人がやってきて労 働力の不足、余分な農地の有効利用、人々の交流などの新しい「都市と農村の関係」が生まれているのである。それは都市との交流の中 で農村を活性化させる町おこし(地域活性化)であるといえる。 ゆとり教育の実施、国立大学の法人化、などによる教育の価値観の変化に伴い、地域共同体の教育効果を復活させ、「開かれた教育、地 域全体が教室」といった新たな地域基盤作ることが必要なのではないだろうか。
21世紀は「地方の自立の時代」といわれている。第一章で「行政主導の町おこし」第二章で「行政協力型の地域活性化」、 第三章で「住民主導の町おこし」第四章で企業による「町おこし」までの事例を通じて様々な地域の活動を見てきた。しかしここで取り上げら れたのはもちろん一部の動きでしかない。ここでは「地域の(財政的な意味での)体力を作る」といった観点から見ていきたかったの で町おこしとして評価の高いものでもイベントや○○祭りなど一時的な活性化を目指しているものは除いた。年間を通じて「職を地域 に作り出す」ことで地域は活性化するのであるし、湯布院の事例で見たように観光は多方面に波及効果を持つ総合産業である、その意 味で町全体を押し上げる事に成功したのである。

しかも町おこしとは「あの町で成功したからうちの町でもやってみよう」といった発想では二番煎じの憂き目を見ることにもなるし、共 倒れになってしまう。またありきたりなものを作って成功することも難しい。

「町おこし」、「村おこし」といった言葉が使われだして30年近くたっているがその言葉の使われ方は様々である。その歴史的背景を 追ってみるとやはりその担い手は行政から住民へと確実に移ってきていると思われる。しかし行政だけで行うといった形ではなく町おこ しは住民も一緒になって行おうという考え方は広まってきた。

また都市部との交流の仕方も変わりつつある。高度経済成長期を代表とするリゾート型の歓楽施設ではなく、 地域の良さ、田舎の良さを都会の人に味わってもらう事を目的にしたグリーンツーリズムなどが流行している。

何か物を売り出すのではなく自分の地域色を出し、「地域自体を売り出すこと」が今後、地域が生き抜いていくためには必要である。

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参考文献
「全国ふるさと創生一億円データブック」 地方自治政策研 第一法規出版
「90年代の地方自治とふるさと創生」 地方自治経営学 ぎょうせい
「ふるさと創生と地方分権 」 地方自治経営学 ぎょうせい
「おらが村の一億円は何に化けたか」     外山操とグルー 雄鶏社
「素晴らしい国・日本 私の「ふるさと創生論」」 竹下  登/著 講談社
「ふるさと創生省庁施策集 」 経済政策情報編 第一法規出版
「現代の世相 5」 小学館
「大分県の「一村一品運動」と地域産業 」 大分県地域経
「大分県一村一品流通システムと地域」 大分県地域経
「地方の財政革命 一村一品運動からマイタウン構想まで」 森木 亮/著 振学出版
「プロジェクトX挑戦者たち 22」 NHKプロジェ 日本放送出版
月刊「地方財務」
「村おこしの実践と理論」 大分県庁小企業センター
「「町おこし」の経済学」 竹内 宏/著 学生社
「「町おこし」の経営学 ケーススタディー・地域経済活性化 官と民の新たな関係」 三井物産業務部「ニューふぁ〜む21」チーム/編 東洋経済新報社 北海道庁HP