このホームページは早稲田大学社会科学部「政策科学」上沼ゼミの個人研究ページです。
〜研究・自己研鑽が進み次第更新〜
経済財政政策
どんなに優れた公共経済学説が提出されようとも、それを実現に導くのは政策であり、政治である。そして、そこにいるのは経済学的に合理的な個人ではなく、自らの政治的信念その他に突き動かされる「人」である。
当たり前に聞こえるかもしれないが、これは師である上沼教授から学び取った私にとって非常に大きな言葉だ。この考えに則って卒業論文を制作することをここに誓う。
「初めに理論があるのではない。初めにあったのは問題だったはずだ」
これも師の言葉だ。
この言葉が私にとって大きな意味を持ったのは、他でもない、私が勘違いをしていたからだ。いつの間にか私は理論を重要視し、問題に対する見方が疎かになっていた。理論は問題解決のための手段に過ぎず、決してそれ自体が目的なのではない。こんな当たり前のことをつい最近まで気づかずにいた。
その事に気付かされるまで、私は経済理論の勉強に励もうとしていた。そして卒業論文ではその勉学の成果を生かし、「失われた10年」の分析を行おうと思っていた。今思えばあまりにも無知で無謀なテーマ設定であった。
凡人である私に必要な経済理論を短期間で習得するのは度台無理な話であった。教授や仲間の助言もあって、私は問題からアプローチする事の重要さを理解し、このテーマ・ケースに辿り着いた。
政策の現場には様々なアクターが存在する。
ある問題が、1つもしくはそれ以上のアクターによって認識され、実行に移されるまでには様々な手続きを経るが、制度上定められた過程を除けば、その実行過程に絶対的に統一されたものがあるわけではない。しかし、2001年に小泉純一郎が首相に就任してからはその傾向が多少薄れた感がある。
本稿は、小泉内閣において重要な役割を果たしたと言われる経済財政諮問会議(以下諮問会議)におけるアクターを中心に据えた研究である。なぜ諮問会議が「失われた10年」下において重要な役割を果たしたと言われるのか、本当に政策過程は変わったのか、だとしたらなぜ変わったのか。その内部と周辺のアクターを丹念に調査・分析することで明らかにしていきたい。
一つ断っておくが、私には政界・官界はおろかマスコミにもコネクションがない素人である。しかしそうであるからこそ、ここにもう一つの研究の意図がある。この研究を行うことによって「諮問会議は政策過程を透明にした」ということが本当なのかにも応えられることを確信している。
本題に入る前に構成についてもう一つ断っておこうと思う。本稿の目的は上記の通り、主要なアクターの分析を行う事にある。故に財政や経済学に関する種々の理論には深く立ち入ることはしないし、出てきたらできるだけ解かりやすい解説をつける。ここでは諮問会議が行われていた当時を出来うる限り抽出し、01年以降の各アクターがどのような認識を持ち、相互の主張を混ぜあげながら政策をどう実現していったかに議論を集中することにする。
資産価格の暴落と実体経済への波及を端に発した「失われた10年」は、ゼロ金利・量的緩和も、ケインズ的公共投資も、IT景気も吸収し、90年代の日本経済を痛めつけ続けた。この原因については学会等から様々な論文が発表されており、何か一つ特定の原因があったとは言い難い。
結果論として言えることは、「カネをばら撒くようなこれまでのやり方では効果が薄かった、少なくともどん底の景気をさらに掘り進まないようにするぐらいの効果しかなかった」ということぐらいである。
それが解かっていながら、なぜ遅くとも90年代後半に他の対策が打てなかったのか。既存の経済政策が大きな効果を発揮しない中で、政治家・官僚はなす術がなかったのか。彼らは状況から判断して他の手を打てないほど無能だったのか。
そんなことはありえない。彼らは決して無能ではない。むしろ合理的な方である。
彼らが本当に長期的な目線で、公共精神に則って行動していたなら、こんな問題はとっくのとうに解決していたはずだ。それくらいの能力が官僚にも、それを動かすはずの政治家にも備わっている。
だがシステムがそうはさせなかった。政治家は自分の職を維持するために目先の選挙に勝とうとし、官僚は自分の天下り先を確保するため省益確保に躍起になった。
「景気が悪いのはわかるが、できる限り自分の所を犠牲にしたくない」
これが政治家と官僚が今でも持っている本音である。この本音に基けば彼らの行動は合理的以外の何ものでもない。
人間だれしも甘い汁を吸いたいものだ。欲のない人間などそういるものではない。いくら「公僕」であったとしてもこの意識を是正するのは困難であり、唯一効果がありそうなのは幼少期からの教育のみである。だからと言ってそのような教育体制を検討して確立し、それを施された人材が上級公務員や政治家になるのを待っている訳にもいくまい。
様々な利害がぶつかり合って長期的視点を欠き、問題が解決できない状況―社会的ジレンマがもたらした最も大きな事例が「失われた10年」なのではなかろうか。日本経済の構造を長期的視点で改革するにはまずこのジレンマから解決しなければならなかった。
ただ、「霞ヶ関(官僚)と永田町(与党・政治家)からの利害が内閣による政策を押しつぶす」ということへの問題意識は最近になって起こってきたものではない。
第二次大戦後、内閣総理大臣の権限はそれ以前と比較して大幅に強化されたが、二つの要因が内閣のリーダーシップを阻んだ。
@議院内閣制の発足、A官僚組織の戦前からの継続がそれである。@は与党の代表者が内閣総理大臣になることで、政党の利害の影響を受けやすくなったことが主因である。現在でも、政府の政策は自民党の部会・政務調査会・総務会の承認を得なければ国会に提出できないし、自民党総裁(≒総理大臣)の決定は基本的に派閥勢力に依存している。Aはいわゆる1940年体制であり、戦前・戦中における官僚体制が戦後も温存され、強化されてきたことが主因である。官僚は内部組織を変更されることに強く抵抗し、時に政治家への根回しや提出文書の巧妙な改変を行うことでその地位を保ってきた。このような状況の中で内閣主導で政策の枠組みを決めることは多くの場合不可能であった。
この事から、1961年に始まる第一次臨時行政調査会・81年からの第二臨時行政調査会、臨時行政改革推進審議会・橋本行革へと続く内閣機能強化への道のりが生まれた。既存省庁・与党からの抵抗と永い戦いの末、内閣主導の経済財政政策を行う舞台装置として1998年に諮問会議の発足が決まった。(注)
長期的視点に立って最善の政策を行うためにはシステムの変更が不可欠であり、その事は戦後間もない頃からわかっていたことなのである。その政治システムの中で特に重要な要素は、@国民に見られる政策過程、A官邸・内閣主導の政策決定と人事権の掌握であった。政治家も官僚も利己的な合理性の下で行動する誘引があるというなら、まず官僚を動かし監視することができる官邸(内閣官房)の体制を整えなければならない。もちろん官邸のトップには政治家が就くことになるが、これは国民の目に晒すことで監視するしかない。諮問会議は基本的に会議の直後に記者会見を行い、3日後に議事要旨と配布資料をWEB上に公表する。さらに4年後には詳しい議事録が公開される。このため諮問会議が経済財政政策のイニシアティブを取れれば@とAが達成され、システム上は長期的に最適な政策を行える体制が整うことになる。このシステムを獲得するのに40年もかかったことは官僚や政治家の抵抗が如何に強かったかを物語っているといえるだろう。
(注)大田弘子氏も著書の中で述べているが、内閣府設置法には諮問会議の所掌事務として以下のように書かれている。 「内閣総理大臣の諮問に応じて経済全般の運営の基本方針、財政運営の基本、予算編成の基本方針その他の経済財政政策に関する重要事項について調査審議すること。」 「企画立案」ではなく「調査審議」となっている。太田氏は、大蔵官僚によるこの記述は諮問会議の権限後退を招く可能性のあるものとして記憶にとどめておくべきと指摘している。全く同感である。
長い不況は国民感情をも変えていった。終わりなきリストラ、就職難、少子高齢化に伴う社会保障不安、財政赤字の膨大化など、国民の不安の対象は数え上げればきりがない。村山内閣から森内閣までの内閣不支持の理由を見てみると、その第一の理由はいずれの内閣においても「期待が持てない」になっている。 (出所 http://www.crs.or.jp/51822.htm及びhttp://www.crs.or.jp/4973.htm) それほど時の内閣に対して不信感があったということの現れであろう。
国民の政治に対する不信感は確実に政府関係者の危機感を募らせた。官僚の中からは平成革新官僚と呼ばれる意欲をもった者が現れはじめ、確実に改革の機運が芽生え始めていた。一方で、国民の不安は自民党員にも波及し、それは政治家にも届くようになっていた。2001年4月、密室で選ばれ、失言を繰り返した事が大きな引き金となって辞任に追い込まれた森首相の後任を争う自民党総裁選では、県連投票で小泉純一郎が圧勝し、それが国会議員票にも大きな影響を与えた。危機感を抱いた国民の意志がリーダーを選んだ稀有な事例である。
2001年4月、自民党総裁選で小泉純一郎が選出され、第87代内閣総理大臣となった。よくマスコミでも言われていることだが、小泉とそれ以前の首相の決定的な違いは国民の支持に依拠している点である。国民主権の国なのだから首相に国民の支持があって当然のような気もするが、これまでの総裁選は党員と国会議員による公選(票数換算は時代によって異なり、公選でないときもあるが)であったにもかかわらず派閥の力が大きく働いていた。各派閥の支持があって初めて総裁選で得票できる制度だったのである。事実、01年以前に小泉は2回総裁選に出馬しているが、そのいずれにおいても大派閥の支持を得ることができずに惨敗している。しかし当時の総裁選は違っていた。国民の危機感は明確なリーダーシップを求めていたのである。
最大派閥の支持なしに国民の支持のみで総理大臣になった事が如何に重要なことか、それは組閣における人事に結実する。小泉以前は、各派閥から推薦された国会議員が入閣していた。つまり首相に組閣の人事権がほぼ無く、派閥ごとの当選回数順に大臣が決定されていく仕組みだったのである。派閥の支持があって初めて首相になれるというシステムがもたらす弊害がここにある。人事権がなければ官邸主導どころではない。各大臣が適任者でなければ官僚や与党に取り込まれるのがいいところで、スキャンダルで政権が瓦解することだってあり得る。一方で小泉は大派閥の支持を受けていないため、推薦人を組閣時点で使用する義務はそれほど無い。竹中平蔵の『構造改革の真実 竹中平蔵大臣日誌』には総裁選直前の勉強会での話としてこんな会話があったとしている。
「政治学者として招いた東京大学の北岡伸一教授の話があった。北岡さんは次のような話をした。『これまでの自民党では、当選回数によって順次閣僚ポストが割り当てられ、かつこれが派閥ごとの折衝の中で行われてきました。また、一定以上の当選回数の人に、ほぼ満遍なくポストが行き渡るよう、頻繁に内閣改造を行ってきました。しかしこれでは、力のある政治家がいたとしても、その人が大臣として継続して責任のある政策を実施することが妨げられます。結果的に、官僚依存の事なかれ的な政策しかできず、これが今日の危機的な状況を招いています。だからこそ、本当にきちんとした政策を行うには、まさに最適な人材を担当大臣に据え、「一内閣一閣僚」のつもりで人選すべきです』」
小泉はこれに近い感覚で人事権を行使した。さらに人事においては秘書官である飯島勲も大きな影響力を持った。彼はマスコミから「官邸のドン」と言われるほどの豪腕だったようで、小泉が人選した後、その人物を徹底的に洗ってスキャンダルを起こしそうかどうかを確認した。小泉内閣発足後5年半、閣僚の大きなスキャンダルが聞かれなかったのはこのためかもしれない。
小泉独特の人事采配は、竹中などの閣僚のみならず内閣府事務方の官僚にも及んだ。官僚が改革に対して抵抗する傾向が強いことは上述したが、小泉・飯島は、彼らが最終的には政治の決断に従わなければならない事をよく理解していた。これは4期の厚生大臣・郵政大臣在任中に学んだことで、官僚人事を押さえるためにはまず官僚のトップ、すなわちOBの人事から押さえることが肝要であることから、具体的には古川貞二郎元官房副長官を味方につけ、過去の慣習にとらわれずに改革意欲に満ちた官僚を次々と登用していった。
官僚の人事を押さえることは構造改革にとって非常に意義があった。いくら意欲のある大臣を抜擢しても、実際に文書作成等の事務作業を行うのは事務方の官僚たちである。その事務方を味方につけなければ、役人お得意の骨抜きによって改革が意味の無いものになってしまう。以下の章で各省庁による骨抜きの様子をつぶさに見ていくが、それをつぶしていくには少なくとも内閣府事務方に味方がいなくてはならない。その事は小泉も竹中も理解していたようで、それぞれに特命チーム(小泉の場合は連絡室参事官・竹中の場合は裏会議、後に詳述)を立ち上げ、事務方の協力の下で改革を進めていった。
2001年5月7日、小泉首相による所信表明演説(http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2001/0507syosin.html)が行われた。ここに諮問会議に上程されるアジェンダの殆どが詰まっている。不良債権の早期処理、財政出動に頼らない景気回復とプライマリーバランスの黒字化、特殊法人見直し、地方分権改革(後の三位一体改革)、社会保障制度改革、規制緩和などである。この演説の内容に基づいて経済財政諮問会議は政策を打ち出して行く事になるが、この演説の作成にも一悶着あった。官僚側はこの所信表明演説の重要性を十分に理解していた。これは事務次官会議にも閣議にもかけられるものではないが、マスコミからの注目を浴びるため一定の拘束力を持つと考えられているからだ。だが、自分の所管する業務を演説に加えてもらおうと官僚が大挙して官邸にやってくることを小泉は知っていた。事前に竹中の話をよく聞いておくようにと内閣総務官にクギを刺し、踏み込んだ内容の演説になるよう方向付けられた。
以上のような過程の下で、2001年5月18日、小泉首相が議長となる最初の諮問会議が開かれた。2001年においては既に7回の会議が開かれていたが、メンバーの変更は首相(森から小泉)・経済財政担当大臣(麻生から竹中)・財務大臣(宮沢から塩川)の3名のみで、官房長官(福田)・総務大臣(片山)・経済産業大臣(平沼)・日銀総裁(速見)・民間議員4名(奥田・本間・吉田・牛尾)はスライドで会議に参加していた。しかしこの3名の変更が諮問会議に大きな変革をもたらすことになる。
諮問会議の基本的なスタンスは、民間議員が連名で政策のたたき台を提出し、各省との調整に入るというものである。01年5月(第七回諮問会議)までの諮問会議でもそのような傾向が見られたが、それは会議が行われる前に「4人会」と呼ばれる民間議員の打ち合わせがあり、そこで提出資料の調整が行われていたからであった。5月からはその会に竹中も参加するようになった。
竹中はそれまでの諮問会議を変えようとしていた。財政政策の主導権を握られることを嫌った財務省に諮問会議自体を骨抜きにしようという動きがあったからである。基本的に民間議員が資料を提出する際には事務方が作成したペーパーを基本にする。役人言葉に詳しくない民間議員はどこが骨抜きにされているかに気が付かずに提出してしまうこともあるし、財務省から出向した内閣府事務方に言いくるめられてしまうこともあり得た。実際に竹中が4人会に参加していない01年5月までと05年11月からの民間議員提出資料と、竹中が参加していた時のそれとでは毛色が全く異なっている。竹中は民間議員4人の連名という武器を最大限に活用しようと、前述の「裏会議」において政務秘書官の岸博幸・真柄昭宏・内閣府第三政策統括官の岩田一政とともに綿密な政策議論と各省の動きを分析し、4人会で民間議員と調整の上で承認を得、諮問会議に民間議員ペーパーを提出させていた。
竹中とその特命チームが作成し、民間議員4名の連名で提出される民間議員提出資料は経済構造改革を進める上で大きな役割を果たした。官僚や議員が最も嫌う数値目標も、改革の工程表も民間議員ペーパーから生まれたものである。だが官僚・与党も黙ってはいなかった。以下の章では、小泉・竹中・民間議員と各省・与党の主張をそれぞれ個別に見ていく。ここで政策が「人」による激しい折衝によって生まれるものだという事がわかるだろう。
各アクターの分析に入る前に、簡単に諮問会議の政策プロセスを説明しておこう。諮問会議の決定事項として重要なのは@「経済財政運営と構造改革に関する基本方針」(いわゆる「骨太の方針」)、A「予算の全体像」、B「予算編成の基本方針」、C「構造改革と経済財政の中期展望」(いわゆる「改革と展望」)の4つである。このうち@「骨太の方針」とB「予算編成の基本方針」C「改革と展望」は閣議決定事項であり、A「予算の全体像」、B「予算編成の基本方針」は閣議決定された@の下に策定される。「骨太の方針」は6月、「予算の全体像」はシーリングの基準を決めるため7月末から8月初め、「予算編成の基本方針」は次年度予算編成が本格化する12月の初め、「改革と展望」は1月中に策定され、中期的な経済財政運営を示す。諮問会議はこの@〜Cの決定事項を中心に運営されていくが、やはり閣議決定され、以降の政策に大きな影響を与える「骨太の方針」の策定の際には激しい折衝が繰り返される。
@から順にその意義を追っていくことにしよう。
「骨太の方針」は、簡単に言えば「宣言」である。「これをやる」という点を明確に国民に知らせ、官僚や与党を縛るための道具として位置づけることができる。それまでは基本的に省庁から上がってきたアジェンダ(注)を与党と調整して決定するという過程だったが、諮問会議(の民間議員もしくは竹中)がまず先手を打ってアジェンダ設定を行い、「骨太の方針」で具体化し、閣議決定するという過程に変化した。これによって骨太以降の政策方針が固まり、実現に向けて動き出す大きなきっかけを作ることができるようになった。
「予算の全体像」は、6月に閣議決定された「骨太の方針」と、財務省主計局が取りまとめる概算要求基準をつなぐ意図で策定されてきた。即ち、骨太>予算の全体像>概算要求基準という枠組みの具体化が目的であったが、「予算の全体像」と概算要求基準がほぼ同時に策定されていることや与党との調整が難航するなど、必ずしも当初の意図通りに進んではいない。
「予算編成の基本方針」は、各省庁の概算要求を受けて諮問会議が策定する予算方針である。国家の財政状況・マクロ経済状況と次年度予算が整合性を持ち、重要事項に対して重点的に予算が配分されるよう枠をはめるものとして策定される。また、5年間の中期的な指針である「改革と展望」と予算が整合性をもつよう、「改革と展望」と同時に議論が進められる。
「改革と展望」は、上に示した通り、5年間の中期的な経済・財政政策指針を示すものとして策定される。単年度予算を組む現在の日本のシステム上、中期的な計画が必要との認識で議論が始まったが、自らの影響力に枠をはめられる事を嫌った与党・財務省の抵抗で「計画」という文言ではなく「展望」になった。「改革と展望」の策定には、「骨太の方針」と同程度の激しい折衝が繰り広げられる。
諮問会議には10人のアクターが存在する。内閣府設置法には、首相・経済財政担当大臣が固定メンバーとして指定されており、他の議員は8人以内で首相による指名が行われることとされている。当時は民間議員4名・財務大臣・総務大臣・経済産業大臣・日銀総裁が出席していた。この構成は変更されることなく06年9月まで会議が開催されることになる。
(注)アジェンダとは日本語では検討課題と言い換えることができる。アジェンダには優先順位があり、優先順位の高いアジェンダから解決に向けた政策が作られる。
諮問会議において小泉は議長の立場にあり、議論に積極的に参加することは殆ど無い。小泉が発言するのは端的にいってリーダーシップを発揮する時である。
諮問会議では既得権益を破る構造改革を進めていく上で多くの激論が交わされたが、常に改革側(竹中・民間議員等)が優勢だったわけではない。小泉が発言するのはこういった時である。議論が平行線をたどり、決着がつかない場合に最後の小泉の押しの一手が加わることが多かった。抵抗の強い改革案の多くはそのようにして成立していったのである。マスコミには小泉は経済音痴で改革を丸投げしているとの揶揄があったが、それはあまり適当ではないと思われる。小泉はこういった自分の役割をよく理解していた。その上で改革の取りまとめを思想を共有する竹中に任せ、それを承認するという方法を取ったと考えるのが妥当である。
それぞれの政策議論でどのような発言があったかは後の章で述べることとして、ここでは小泉の人事に注目してみたい。
小泉が人事権を掌握した背景は前述してあるが、実際にはどのような人物をどのような理由で採用したのか。小泉自身は記者会見で「適材適所」としか言っていないためその詳細は不明である。判明しているのは『国会議員総覧』を見て一本釣りし、飯島秘書官が前述の「身体検査」を行うといった手法のみである。
小泉は諮問会議に参加する経済閣僚の変更を基本的には3回行った。(参照:http://www.keizai-shimon.go.jp/about/member/successive_memberlist.pdf)2001年4月の政権発足時、2003年9月の第二次内閣改造、2005年10月の第三次改造内閣がそれである。順を追って詳しく見てみよう。
2001年4月、諮問会議に出席する官房長官・経済財政政策担当相・総務相・財務相・経済産業相の5人の閣僚が決まった。官房長官である福田・総務相の片山・経済産業相の平沼は留任、経済財政担当相の竹中・財務相の塩川を新たに加えた。
諮問会議の議長は首相であるが、司会を務めるのは経済財政政策担当大臣{正式には内閣府特命担当大臣(経済財政政策)}である。2001年当初、このポストには総裁選前から小泉に経済政策を説いていた竹中が就いた。小泉は、経済財政政策を官邸主導で行う可能性を持つ諮問会議を政策・経済に強い竹中に任せ、竹中自身も自らが主張する政策を推進するためには諮問会議をうまく活用することが必要と考えていた。
学者からの転身ということもあって、竹中の主張は政治的な利害からは一線を画していた。ただし竹中が政策・政治に対して疎かったかというとそんなことはない。彼は生粋のポリシーウォッチャーである。自身が最も望ましいと考えている政策と実際にまとまる政策が異なる事、すなわち政治の本質は人であり、利害関係者の妥協によって出来上がるものだという事を竹中はよく理解していた。だからこそ、上述の裏会議において綿密な作戦を立て、4人会で調整し、時には小泉とも接触することによって抵抗の強い与党・省庁を枠にはめ、構造改革を進めていったのである。以下で竹中の主な主張を概観する。
それ以前からマスコミなどに数多く出演していたこともあって、竹中の主張はわかりやすい。主な主張の一つはサプライサイドの強化である。経済は需要(demand)と供給(supply)の均衡によって成立するが、竹中はその供給の強化を目指した。具体的には不良債権処理や郵政民営化などの規制緩和が中心で、従来の財政出動に依存した需要刺激策を徹底的に排除した。小泉内閣が発足する以前の景気対策といえば赤字国債発行を伴う財政政策しかない。その方向はもはや生産性が高いとはいえない公共事業に向かっており、効率的ではなかったのである。
竹中の主張する供給側の強化とはどういうことで、なぜそれを行わなければならなかったか。当時よく議論になったのはGDPギャップについてである。GDPギャップとは、潜在成長力(工場などの生産設備・労働力・技術革新など、供給しようと思えばできると考えられる総推計量)からGDP(実際に生産された財・サービスの総量=需要量)を差し引いて得られる水準(ここでは供給量−需要量と考えてもらってもかまわない)。当時のGDPギャップはプラス、即ち供給超過・需要不足と推計されていた。一般的にはこの状態で経済沈滞、不況と言われていたため、既得権益に依存する与党政治家が財政出動を主張する格好の裏づけとなっていた。だが90年代にいくら公共事業で景気を刺激しても需要が潜在成長力に追いつくことがなかったのはご承知の通りである。恐らく与党の政策通や経済官僚は見てみぬふりをしてきたのであろう。彼らは問題が供給の「中身」に隠れていることを知っていたはずだ。
竹中は供給の中身に問題がある事、その改善にはかなりの抵抗が予想されることを理解していた。供給の中身が既得権益の塊であり、ジレンマで誰も動けない事が目に見えていたからである。竹中は供給を構成する資本(工場などの生産設備)には「使えない」もしくは「生産性が低い(生産効率が悪い)」ものがあると断じ、生産性の低い分野を淘汰して高生産性産業に資金が回るよう政策運営を行うべきだと主張した。
では具体的に供給側を強化するために何を行えばよかったか。構造改革と言ってしまえば一言で済んでしまうが、それでは具体性の欠片も無い。竹中は不良債権の処理と規制改革をその中心に据えた。このうち不良債権の処理については諮問会議で4回議題に挙がっているが、何れも竹中が2002年9月に金融担当大臣になる前のものである。すなわち竹中は不良債権の処理において中心的な役割を担った事は確かであるが、諮問会議においてその政策が進んだわけではないということが解かる。よって諮問会議のアクターを分析する本稿では不良債権処理について大きく触れないこととする(この政策論争も非常に興味深いところはあるが)。一方の規制改革の大半は小泉の所信表明演説で明言され、諮問会議の議題として挙がってくることになる。
サプライサイドの強化を重視し、マスコミ等でその点を強く押した竹中は「需要無視」のレッテルを貼られ批判を浴びた。しかし彼が全く需要側を無視していたとは言えない。ただはっきりと言葉には出さなかっただけである。需要拡大を標榜すると直ちに政治家は赤字国債を発行して公共事業に走ろうとする。それを厳に排し、新たな予算配分を行う場合にそれを生産性の高い分野に向けるためには、「需要拡大」や「財政拡大」という言葉遣いをできるだけ避けなければならなかった。それが誤解を生んだ、もしくは竹中叩きに利用されたのだと言える。一方で財政拡大を抑えようとする流れが出来てしまうと今度は財務省が勢いづき、均衡財政に近づけようとする。急激な緊縮財政は一時的な激しい不況を招き、橋本政権と同様の過程で小泉政権を瓦解させることになりかねない。竹中は、予想される成長率を下回ることが懸念される場合は生産性の高い成長分野に重点的に補正予算などで配分することが必要とも考えていた。
公共事業に頼るような安易な財政拡大を厳に排し、かつ財政赤字を急激に減らそうとする意見も抑えるという微妙な位置にあった竹中は、この時期「ナローパス(狭い道)」という言葉を多用している。長期的な財政健全化を目指しながら、規制改革によって景気浮揚を目指し、かつ不良債権を処理しながら、デフレスパイラルも回避するという余りに不安定な道を歩まねばならなかった事を端的に示していた。そして「ナローパス」を確実に歩むためには、自らが正しいと考える政策を妥協を許さず進めていく事が必要だった。
その意味で竹中の政策の進め方は戦略的だった。上記の通り彼は政策科学にも詳しく、アメリカの政策科学者キングダンが提案した政治過程モデルである「政策の窓」モデルをよく理解し、その援用を試みていた。「政策の窓」モデルとは、(1)問題はいかにして認識・定義されるのか、(2)政策案はいかにして生成・特定されるのか、(3)政治的出来事はいかにして問題と政策案に関わって登場してくるのか、(4)政治的出来事はいかにしてある決定的な時点に問題と政策案に結び付くのか、の4つを明らかにするためのモデルである。ここで重要視されるのは、@アジェンダの設定は誰がどのようにして行ったのか、Aアジェンダの優先順位を上げたのは誰かの2点である。竹中は諮問会議においてこの2点を掌握することに腐心し、それに成功したといえる。
「自らがアジェンダを設定し、その高い優先順位を獲得する」という事は、事実上「政策の主導権を握る」という事とほぼ同義である。「これ」が問題だと言うことを広く知らしめ、それを与党や政策担当者に突きつけ、解決に向けた方向性を示し、解決の期限を定め、骨抜きを許さなかった竹中は、目標を達成するために使えるものは全て使った。民間議員、官僚の手法、小泉のリーダーシップがその代表的なものである。
上述の通り、諮問会議の議員は議長である小泉を除いて10名である。この内民間議員が4名を占め、これに竹中が加われば過半数を占める事が可能である。諮問会議の採決は多数決でまとめられると決まってはいないが、半分を占める事ができる意義は大きい。竹中はこれを巧みに利用し、民間議員の「四人会」と会議前に綿密な意見の磨り合わせを行った。5人の意見が一致した民間議員ペーパーを問題提起・政策提言のたたき台にすることでアジェンダ設定を掌握しようと試みたのである。これが竹中が用いたアジェンダ設定の手法である。
平成15年から、毎年一月の第一回の諮問会議で「平成○○年の経済財政諮問会議の進め方」と題された民間議員ペーパーが提出されている。民間議員ペーパーは年間を通して数多く提出されているが、年初の民間議員ペーパーは特に重要だ。少なくとも竹中はそう考えていた。ペーパーは基本的に牛尾・奥田・本間・吉川の四人の連名で提出されるが、年初のそれの内容は実質的に竹中がとりまとめを行い、設定したアジェンダ郡である。
竹中がアジェンダ設定の主導権を握ることに執念を燃やし、年初の民間議員ペーパーでそれを一挙に行おうとした理由はただ一つ、先手を取るためである。周囲の政策担当者が予算案の詰めと国会提出・通過に気を注いでいるうちに議事録・提出資料が公表される年初の諮問会議で高めの政策提言を行ってしまうこと。ギリギリの妥協ラインまで見据えた上で、高い要求の政策を出し、抵抗勢力によって削られてもよい政策の「糊しろ」を作っておくこと。これが構造改革を進めていく上で非常に重要であった。郵政民営化も、三位一体改革も、多くが骨抜きにされたと揶揄されるが、竹中にとっては妥協できないところは残した想定の範囲内だった。
この手法は官僚がよく使った手段でもあった。官僚は常に政治家の主張を見据え、政策の落とし所を見極めてから政策案を与党に掛け合った。この手法をより強力な形で使用したのが竹中である。他にも「霞ヶ関文学」と言われる官僚特有の言い回しも巧みに利用した。当時内閣府政策統括官を勤めた大田はこう回顧している。
「役人の文章は玉虫色で、何を書いているかわからないといわれる。そのとおりである。私も民間議員ペーパーのたたき台を考える時は、可能な限り明確に、主張がわかりやすく出ることを心がけた。しかし、与党との調整の場面になると、立場は逆になる。反対を受けながら改革の芽を少しでも残すために、メッセージを埋め込み、両方の読み方ができるように、まさに玉虫色の表現を懸命に探す。芽が残れば、また次の機会に復活戦ができる。わかりにくい表現は、様々な利害対立のなかで、改革の芽を残し、次につなげていく手法でもある。」
利用した、というより利用せざるを得なかったことがわかる。
諮問会議における竹中と与謝野の違いはいろいろあるが、そのうちの一つは会議の最後のまとめ方である。竹中は会議のまとめの際、「○○という意見が出て、それに対し△△といったコメントがあった。□□については合意できたが、●●についてはさらに議論が必要である。」というような方法を取り、議論を後退させないよう区切りをしっかりとつけていた。与謝野も同じような取りまとめを行ってはいるものの、明確さに欠ける部分がある。
(注)【参考文献】